ロブ・レターマン『名探偵ピカチュウ』

全き、極めてパーソナルで、ドメスティックで、普遍的でないことが、ポケモンと接する自分の中に潜んでいて、それを除くこと、除いて語ることなどできはしないだろう。

そういった記憶や思いを抜きにすることができない人間としては、今から20年以上前、家の近所の公園の横のローソンの駐車場、夏の日差しに照らされながら、友人たちとゲームボーイに向かい合って、初期ロットの緑のバグり技でミュウを出した…そんな思い出が、見ながら頭を駆け巡ってしまうエンドロールだけで2京点ということです。

 

作中のエピソードによって、この映画は、たとえどんなにリアルで、本物と見分けがつかないものだとしても、それが真実と等しいものである、とは限らない、というテーゼを示している。それがこの映画そのものに対するアンチテーゼになってしまっているわけだが。

そしてこの映画のミュウツーの行為は、もはや神(≒製作者)から人間(≒キャラクター)への介入、といった風ですらあって、だから、人間には彼の仕掛けと、それが後々にどんな事態を引き起こすのか、予想も理解できない。

ガス・ヴァン・サント『ドント・ウォーリー』

AAとグループセラピーと講演会、(今作では交通事故という)決定的瞬間が除かれること、悪態と冗談と親愛の言葉、…おしなべて全てアメリカ(映画)の(重要な)構成要素である。しかもいきなり序盤に、星条旗を背にした演説シーンがあってびびってしまった。

 

何が起こってるのか、なんの話が喋られてるのか、ここで登場する人物が何者で何をしに現れたのか、説明はなく、ただ唐突に(最低限の自己紹介としての名乗りだけで)彼らは喋り始め、行動し始める(まさに「事故」のように)。いきなりフルスピードで走り始める電動車椅子のように。

つまりはそれって、前提がないってことだ。ジョナ・ヒル演じる人物が、主人公ジョンに語るように、誰かの話、枝葉の話ではなく、まず「君の話を聞かせてくれ」ということ。

 

しかし、この映画のホアキン・フェニックスは、肉体の演技としてかなりすさまじいことを、さも自然に、さらっとやってのけているので、思わず何も大きなことは起こってないかのように観客である自分は見てしまっており、そのことに気づいて戦々恐々とする。

アダム・マッケイ『バイス』

ともかく、「一度終わって、もう一度始める」という構造が繰り返されていた。

そして、もう一度やる時は、前とは違い、使われるものはまがい物になってる、ということでもあった(むちゃくちゃな法案の中身は変えずに成立させるため、「規制緩和」である、という根拠をあてがって国民の支持を得ようとする、ような身振り…)。

さらに、もう一度始めた時には、前よりも状況は悪化している。

しかもこの悪化は、チェイニーに言わせれば、もし「もう一度」やっていなければ状況はもっと悪かった、ということらしい。当然それを証明できる人間は誰もいない。

この一連の流れとむずびつくモチーフとして、「フライフィッシング」や(他人の)「心臓」が登場しているのかなと。

それは、チェイニーという、秘匿的で、つかみどころのない人物を映画化するにあたり、その取っ掛かりとして利用する、かろうじて明かされてる「事実」のモチーフでもある。

ただ、楽屋オチ、笑わせる編集、ぶつ切りの音加工、本編のストーリーから逸脱した人物によるナレーションや解説、などのアダム・マッケイ節が、観客を映画に没入させることを阻止していて、それは、この映画(で語られていること)こそ、(複数の次元において)「にせもの」である、ということを示しているわけだが。そして、ここにおいて、クリスチャン・ベールの肉体変化を本当にやっていることはどういう意味なのかという(数々のブロックバスタームービーで使われるようなCGIによる加工、ではなく)。

スパイク・リー『ブラック・クランズマン』

サスペンスの盛り上げ方、アンチクライマックス、明らかにタランティーノの手法、センスが使われている。

最初は「俺の方がもっと上手くやるし、ブラックスプロイテーションとかも俺の方が使うべきだろ!」みたいなことなのか、と思っていたが、これについては、むしろ、上手くやる、じゃなくて、上手くやっちゃダメだろ、そこを面白くしちゃダメだろ、ってことなのかな、と気づいた。

スパイク・リーが感じるタランティーノのよくないところをふまえ(おもしろくさせすぎるところ?)「修正」しかつタランティーノのセンスとマナーに(憧れて?)則って作った(もともと近しい所とあったような気もする)。かなりねじれてるなーと。

どうして面白くしちゃダメなのか?ハラハラさせちゃダメなのか?について、本作では決定的なシーンを描くことで示している。ポップコーンムービーの恐ろしさ。

煽って煽って、(エンターテインする手段としての)カットバックに次ぐカットバックをして、「映画はおそろしい」!!!…この『國民の創生』のシーンのねじれ具合が凄まじいというか、ゾッとした。娯楽性の否定、虚構によるリアルへの悪影響(としか言いようがない描き方)、しかしそれを娯楽としての映画で描くというアンビバレンツ。

後半から終盤の、潜入捜査物定番のサスペンス、そしてバレてしまってからの展開、の、引っかかりなく片付けた感じは、史実に敬意を表し、映画自体の主張に寄った結果ということもあるし、あえて狙ったうまくいってなさ(誤解を恐れずいうなら「おもしろくなさ」)であるようにも思える。そして、『スノーデン』とか『15時17分、パリ行き』にも通ずる、振り切った節度のない終わり方も。

なお、本作のアダム・ドライバーは、今までの、どこにいても居心地が悪そう、馴染んでなさそうな姿とは異なる、どこでもうまくやっていけるようなソツのなさがあるタイプの人間を演じてる。それは少し珍しい。

 

《映画は黙殺の汚辱の闇に捨てられていたことどもをその闇から救い出し、目に見えるものとして記録する。(…)そしてしかし、キャメラはそのことによって逆にあらゆるものを監視する視線に酷似して行く。(…)「忘れられた人々」に差し向けられた眼差しが監視と簒奪の眼差しに似てしまうことを如何に回避するか(…)忘却の闇から抜け出して来た喜びの中に残留する汚辱の残り香のようなものがうっすらと彼らの皮膚を覆い、そしてまたそこに別の汚辱、写され視線に晒されてしまったものの汚辱が覆いかぶさることになる。この二重の汚辱を如何にして回避することが出来るのか?或いはこの二重の意味汚辱の厚みのない狭間をすり抜けて真の意味での解放のドキュメントとなることは映画に可能であるのか?(…)撮影されなければ一切の記憶に刻まれることなく消えていってしまったに違いない一つの死を記録すること(…)しかし、その死体に向けられたカメラのほんのちょっとした移動撮影の身振りが、一つの死に対する許しがたい侮蔑となってしまうことにもなる(…)》(丹生谷貴史「死者の汚辱」[『ドゥルーズ・映画・フーコー』]p247-248)

ティム・バートン『ダンボ』

最初に今作についての情報を知った時、ティム・バートンが実写化すべきディズニーアニメは、自分としては、バートン的モチーフに満ち満ちてるから明らかにピノキオだったんだけど、ただ、あえてダンボにしてるというところに期待してたし、あらためて考えればダンボもまたティム・バートン的に解釈可能ではあるんだと思った(思うことにした、というか)。

で、実際に見て、確かに、何かこう欠けてるというか、力が抜けてしまってる部分はあったけど、それでもティム・バートンの映画として成り立ってはいたとは思う。…こうして書くとだいぶ留保付きという感が否めないな…。

劇中で描かれる、自らに好奇の目を向ける人々の姿をとらえたダンボの主観の視点、そしてダンボの瞳に人の姿が映るという描写において、彼が一貫して誰かに見られる対象であること(「見世物」であること)が強調される。

しかし、彼が一番初めにこの世界に現れた瞬間の姿はどうだろうか。

 

経営が傾いたサーカスの目玉となる存在の「代わり」に、期待を裏切る形で現れることになってしまうダンボは、その誕生の瞬間を描かれず、すでに生まれていた(いつの間にか生まれてしまっていた)姿から、この映画に登場する。そして、そうであるがゆえに(誰からも出自を証明されないがゆえに)、「偽物」だと責められることになる(ダニー・デヴィート演じる団長がダンボを最初に見た時、こんな象がいるわけがない!と過剰に拒否反応を示すシーンが、原作にあったのか、それとも今回付け加えたのか?は気になるところではあるが)。

 

ここで提示されている、人目を惹き欺くフェイク、何かの偽物、まがい物であること、また、何かの代替物であること、といったモチーフが、全編に登場している。

 

またさらに、サーカスにおいて、人知を超えた怪力を持つことや、人魚であること、それらがフィクションであるように、不可能が可能になることがあるとしても、それは見せかけ(作り物、虚構、アミューズメント)のはずなのだが、しかし、そうであるにも関わらず、今作においては、(ある種変則的ではあるにせよ)現実(と解釈できるような状況)となってしまう。

 

つまり、「偽物」が「本物」になる、ということだ。

 

そして、その構成が繰り返される中で、ダンボは、自身の母親を、誰も見たことがない彼の誕生を唯一見ていた、彼を(カッコつきの、変則的な)「本物」だと証明する存在として、追い求めることとなるだろう。

 

ただそもそも、映画自体が、そもそもフェイクで、何かの代わりでしかなく、しかもそれを本物らしく、現実であるかのように見せるメディアなので、偽物や代替物を扱うことには必然性があるに決まっている、とも言える。

アンナ・ボーデン、ライアン・フレック『キャプテン・マーベル』

予告を見て、倒れても何度でも立ち上がる主人公の画のつなぎに泣き、まさにこれは「なんでもできる!なんでもなれる!」じゃん、と思っていたら、本編もその通りだった。

電車を使った格闘シーンとカーアクション、のあまりのもったりさに不安になったが、その後の、異星人と地球人とジェット機が、アメリカの片田舎の夜の風景に収まってしまうという、今自分が何を見せられているのか混乱してしまうようなシーンに惹きつけられ、前提なしの超理屈による現象の乱れ打ちによるバトルシーンで猛烈に感動してしまった。さらに現代の映画で、イイ面構えの女vsイイ面構えの女のドッグファイトが見れる喜びも。

逆に言えば、唐突さ、違和感をそのままにしている、という風にも言えるけれど。それがそもそも良いことかどうか、という視点は確かにあるし、そこで、ジャンル(とそれに伴う表現手法)への意識の有無、時代背景への理解の有無が試されているともいえるかなと思うけれど。

そして、『アクアマン』同様、『ジャスティス・リーグ』"以降"で作られた映画であることは間違いなく、かつ、本作もまた、あからさまにサイヤ人の物語という。飛行能力を得て、それに付随して起こる”全能”化が、キャロルという女性のパーソナリティーにも関わっているのもきちんとしていて好感を持った。

クリント・イーストウッド『運び屋』

ちょっとこれ、一体なんなんですかね。何を見たのかという。

これはもう、イーストウッドの『紋切型辞典』(フローベール)ではないかなと。携帯、メール、Google、「タトゥー」、綺麗に切り揃えられた髭、「マッチョ」、「タンクトップ」、…など、自分より”後から生まれたもの”についてのイーストウッドの所感が映画によって語られている。そして、『紋切型辞典』なので、カメラによるそれらの捉え方は、当然、風刺と揶揄と皮肉と諧謔に満ちてる。例えば、イーストウッド自ら演じる主人公アールを脅す、男たちをとらえるカメラの動き、画の構図。このカメラを動かしている者が愛しているものは何か、嫌っているものは何か、がはっきりとわかってしまう。ストーリーやセリフからだけではなく。

そして、このようなことを前から考えていた人間としては衝撃的な、ラストの裁判シーンについてhttps://twitter.com/niwashigoto/status/1086872682770063361https://twitter.com/niwashigoto/status/1086872682770063361https://twitter.com/niwashigoto/status/108687268277006336

アメリカ映画における「裁判」は、おそらく現実のそれをより強調する形で、アメリカという国家自体と、様々な、強い関係を持つものとしてスクリーンに現れる。

その関係とはなにか、といえば、「裁判」を描くことは、アメリカそのものを描くことであり、「裁判」はアメリカのミニチュアないしカリカチュアでもあり、その内部に、裁判所・法廷の中に、アメリカが内包されている、ということでもある。

それは例えば、アメリカにおける「交渉」であったり、「説得」、「告白」、むろん「ルール」、「罰則」、「敵対」すること、「家族」ないし「血縁」について、といった数々のモチーフが多層化し、登場人物の姿や声を借りて表出している、ということだ。そしてここに、「演説」ないし「演技」、「代理」といったものが加わることによって、アメリカ=裁判=映画の等式すら成り立ってしまう。

では、今作はどうか。

イーストウッドである(ともはやここでは言うしかない)主人公の、とんでもなく素早い手さばき(実際に動いているのは立ち上がる足と、喋る口だが…いやもしかしたら手を挙げていたかもしれないが…もしそうならさらに恐ろしさが増す)で、あっけにとられているうちに、場面が完結され、終了してしまう。

それは、上述のような機能とは、まったくかけ離れたものとして、裁判が、法廷が登場している、ということなのか。確かにその短さ、シンプルさ(「代理性」のなさ!)にそう思わされもする。

しかし、それは、ここでも、いや、なによりも、他のシーンではなく、このシーンにおいてこそ、主人公であるイーストウッドが、「これ」こそがアメリカであり、アメリカ映画なのだと、示しているように思える。ここにまったく根拠が記せず、ほぼ直感でしかないのは承知の上でこう述べるが、でも決して、自分個人だけの感覚ではない、とも思う。ただ一つ、誤解を恐れずに根拠めいたことを言うならば、これはもはや、「早撃ち」のアクションなのだということだ。

それがかつて過去にあったものなのか、過去にあり今はもうないものなのか、これからの未来に来たるべきものなのか、想像なのか予言なのか。そのどれもあるし、どれでもない、奇妙で恐ろしいシーンとして、映画の中に(「私」の中に)残り続ける。

ちょうど同時期に(「映画の魔」的に)、丹生谷貴志「崩壊に曝された顔」(『ドゥルーズ・映画・フーコー』所収)を読んでいたが、まるで今作を見て書いたような論考だった(書籍化の際の書き下ろしなので発表年は1996年)。

《だから、「戦後映画」が或る政治性、政治的視点を採用することを必要条件とすると言うのならイーストウッドは「戦後映画」的ではない。しかし逆に、頻繁に戦後世界の大問題、崩壊に曝された世界という問題を取り上げようとする東海岸映画作家たちと並べるとき、「戦後映画」に忠実なのは明らかにイーストウッドの方なのだ。何故なら東海岸映画作家たちの身振りの大部分は、崩壊過程を見据えるように見えて実のところ、崩壊過程を引き受けそれに身を曝し耐えようとするのではなく、崩壊を単なる事件として捉え、それに道徳的な(或いは道徳的情報開示とでも呼ぶべき)決着をつけようとするものに過ぎないからである。それに対し、イーストウッドは崩壊過程に身を曝し、それを自身の映画の倫理にする。》(p280)