ユーロスペースの「GEIDAI FILM2013 ―東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第七期生修了制作展―」を見た。
まずは、遠藤幹大『友達』。

おいおい、松本花奈、かわいすぎんだろ。横顔見て一瞬ん?ってなるけど正面や斜め前から見るとすばらしく美しい、という不定型さもよい。
繰り返し、演技すること、が登場し続ける。その境目が、融解していき、しかし、それで取り返しがつかないところまで行きついてしまう、ように思えるが、そこはあえてそこまで強く踏み込むことは、この作品では行われていないようだ。ラストの水風船の落下の音は、その世界への導入のような、そうでないような…。必要以上に、狂気的な部分を描写しようとしていない。ヒロインの表情をあえてはっきりとは捉えない慎み。だからこそ、もっと焦点をしぼってほしかったような気もする。まぁいいのだけれど。いくつかの素晴らしい左右の移動撮影の映像(電車、車と、行き交う人々)。
そして、黒沢清『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』。

や、やばすぎる…の前に、黒沢監督が、今作を撮るきっかけの一つになったという、スティーブン・ソダーバーグエージェント・マロリー』について。

何気なく見る機会があったので見たのだけど、確かに、この映画のアクションは異様というか、少なくとも映画におけるフィクションのそれとして完成度を高めよう、とは決してしていなかった。
つまり必要性がない、という風に感じられた。たまたまストーリーの展開上、格闘シーンを撮っただけで、それ自体を魅力的に描こうとするのではなく、まったく別のものとして作り上げてしまっている。
そこが、正直ソダーバーグの鼻につくところ、と感じて、ぼろくそに言いたくもなったのだけれど。
撮影に当たり、実在の人間によって、実際に起こっていること、に関心がないんじゃないか、とすら思えて(それが一番おもしろいことなんじゃないかと自分は思っているから)。
しかし、その特異さは、それはそれとしておもしろいものなんじゃないか、ありなんじゃないか、とも考えられるようになった。その距離感や温度差、をあえて強調するような構造。それは、もしかすると、演出や編集によって、エンターテイメント性を極限にまで高めたアクションよりも、別種のものであるが、リアリティを獲得し得ているのかもしれない、と。
『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』における格闘、は、確かにその影響下にある。
まず、音楽がほぼ使用されていない。それと、あまり細かくカットを割らず、寄りも少なく、ルーズに構えて全体をとらえている。
ただ、『エージェント・マロリー』では、そこからさらに踏み込んで、こういう激しい動きのシーンすら、1つの画としての完成度を高めようと試みて、まるでPVのような連続的なカット割り(ユアン・マクレガーとの砂浜での乱闘)を用いたりしているが。
激しい応酬が続く中、主演の三田真央はすばらしい。突如として相手の上半身に飛びつくなど、上下の動きも加わって立体的。
無論、そうしたアクションだけが魅力なのではない。あまりに唐突に提示され続ける、登場人物たちの心境や境遇の吐露、行動、人物や物語の設定。それは前段なくストレートすぎるがゆえに、かえって支離滅裂さを感じさせ、神話のよう。運命論的とでも言える。デジタルで、光あふれたような画も幻想的ですらある。二代目社長とヒロインの長回しワンカットの時の空の色の異常っぷり、不吉っぷり…。
柄本佑、久しぶりに見て、めちゃくちゃかっこよかった。こんな、わけのわからなさをど正面から表現できる俳優になっているんだと感動。なぜ今まで黒沢作品にでてなかったのか?と思うくらいよい。
無抵抗な男をぼこぼこにする女、という終わり方も最高だと思う。音楽も好きだった。