マシュー・ヴォーン『キングスマン:ゴールデン・サークル』


多分ノイローゼなんだろうけど、記憶のモチーフだけならまだしも、なんと鱗翅学(しかも、諦めた幼い頃の夢!)、視界の中に飛び交う蝶のイメージ(それが過去や記憶と結びつく)、加えて故郷の喪失、異国としてのアメリカ、まで揃っちゃうともう……またナボコフじゃねえか!!!という……幼虫のエグジーを美しい蝶に育てたハリーはさしずめハンバート・ハンバートってか!?……とか冗談で思ってたけどHarry HartとHumbert Humbertで2人ともHなのに気づいて震えてきた……。だとしたら1作目からすでにそのモチーフを忍ばせてた、ってことになる。さらに無理やり考えるならば、「貴族」的なものへのねじれた距離感で、マシュー・ヴォーンとナボコフは通じているのか、と……(多分違う)。
やっぱりマシュー・ヴォーンの(大量の)人の殺し方は作品ごとに一貫してるというか筋が通ってる(その内容の真っ当さはおいといて)。今回は「いい人」と「悪い人」が死んで、「普通の人」が生き残った、という感じ。そういう人たちは、大きな罪も犯していないし、極端な善行もできやしない。自分たちが陥る事態を打開するための術・道具を手に入れられることなんてない。そしてだからこそ、あの登場人物(たち)が死ぬのは不自然ではない、と思うよ。
ただ、ここでやっぱりおもしろいのは、ティルデ王女というキャラクターだよな。彼女が一作目、どういう経緯をたどって最終的に収監されてしまっていたのか、そして今作の彼女の行動(彼女ができること、他者にしてあげられること)や陥る境遇のことを考えると、マシュー・ヴォーンの考える「普通」の良さ、素晴らしさ(はちょっと言いすぎか?)とは何なのかがわかる気がする。他者を貶め虐げるずるさではなく、反対に自分を傷つけてなんとかこの世を乗り切っていこうとするずるさ。
あと、何と比べるとかは言わないけどマシュー・ヴォーンの音楽の使い方のほうが数億倍よい。