クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』


とりあえずイーストウッドでいうとまさかの『ヒアアフター』の系譜だったの驚いてる。卑近な言い方してしまえばスピリチュアル的な、運命論的な。と考えて、最近のイーストウッドはみんなそうかと思い至った。
しかしこれ本当に一体なんなんだろう。いや何もくそもなく、「映画」だよってことなんだけど、じゃあ「映画」って何?と聞かれても、「さあ…なんなんですかね…」としか答えようがなく、終わります。
例えばラスト、あのニュース映像の使い方、繋げ方は、『パトリオット・デイ』や『スノーデン』見てて「いやこれはさすがに…どうなん…」と思ったことと同程度のことをイーストウッドかましてるのでおお…となった(ほとんどなんも言ってない)。「開き直り」の半端なさ。
あと、スペンサーの部屋に『硫黄島からの手紙』のポスターが飾られてたのは事実なのかどうか、とか、あと星条旗も本当に飾られてたのか?とか……。
そしてナレーションで始まるのだけれど、なんと驚くべきことに(驚くべきことに?)その話者によるナレーションはそれのみ、ラストは異なる人物による語りにやって終わる。じゃあ冒頭のナレは一体なんなのか?
つまりとりあえずここ数年のアメリカ映画の実話物、実録物の流れにありながら、堂々と逸脱してるのは間違いない。
そしてもちろんAmerican Hero("Sacrament Hometown Heroes")の映画でもある


そういう意味で硫黄島のポスターがあるのは正しいってことか。
あと、序盤の2人の母親と教師の面会シーンから、もちろんタイトルも含めてやたらと時間が強調されているのと、「黒人は狩猟はしない」というフレーズの『ゲット・アウト』への目配せ、が気になりました。