ルカ・グァダニーノ『君の名前で僕を呼んで』


冒頭強調されるのは、ドタバタとした足音、過剰にすら思えるドアを閉める音。アメリカからやってきたオリヴァーが、そのドアの音にビクッとするちょっとした描写もある。その音は、その後この家の中で、人物の動きを姿を見せずに描く手段となる。人々は他人の動きを音で知る。
その大きい音は、見えないものを描こうとするのではなく、(後から)見えるものをより強固なイメージとする方へ働きかけてくる。
この映画は全編にわたって、直截であるし、何も隠していない。見せるもの、描くことを、複数のイメージを使ってより明らかに、詳らかにしようとしている。
例えば、ラコステ、ラルフローレン、(多分)ブルックスの半袖ボタンダウンコンバース、カシオ、ウォークマン、卓上のヌテラ、トーキングヘッズのTシャツ、といった「商品」たち(全てを無化する感想としては、「おしゃれ」、ということなんだけれど)。
さらに、丁寧な"種明かし"。例えば、主人公2人がお互い、映画の中のどこで気持ちを伝えてた?とか、彼ら2人の間に起こったことについて両親は知ってる、など。画で見ていたらわかることを、わざわざセリフでしゃべらせる(言葉にする)。
もちろん、セクシャルさについても、ぐちゃぐちゃに破られた殻から溢れ出る半熟卵、一息に飲み干されるアプリコット・ジュース、と、アミハマさん演じるオリヴァーの「感じ」(さながら"水も滴る"といったところか?)は、露骨すぎるくらい直截的に描かれる。あとは、あの、すぐ復活した……みたいなシーン。2人が気を許しあって、ちょっとした遊びもできるくらい、みたいなことなのはなんとなくわかるが、それにしても……。
そして終盤、どこで終わってもいい、と思えるようなシーンがあまりにも続く。息が詰まりそうな緊迫感、切迫感に満ちている。これでもか、というくらい「終わり」の気配を見せ、ようやく映画は本当に終わる。
では、あからさまであること、あからさまに全てを示すことは一体どういう意味はあるのか、どういう機能を果たしているのか、と考えると、当然、あからさまさそのものを提示することが目的だ、と思いつくわけで、そうなると、その反面の、隠すこと、も同時に際立ってくる。「隠蔽」を「明示」する……。

あと、これは別にどうでもいいんだけど、80年代の話って感じが全然しなかったな。ティモシー・シャラメくんはどう見ても現代の(価値観の)美少年じゃないですか?