佐藤信介『BLEACH』


シネスコで、町の全景や、屋上の空含めた画などがとてもよく、それを見せたいがためか、登場人物もやたらと屋上に行く。自由が丘っぽい最後のバスロータリーのシーンも、左右に広く人物や物を動かしていて画がキマっていた。
そしてとにかく、説明が最小限なのが好感持った。最近の映画にありがちな冒頭のナレーションとテロップの説明とかもないし、作中人物の異能力の仕組みも解説なく使われる。でもそれでいい。原作知ってる人は言わずもがな、知らない人でもそういうもんだと思って見るわけで。
さらに、杉咲花さん、完全にできあがりすぎている。極まりまくった虚構度の高さ(かっこよさ、外連味)と、それでもなおこちらに伝わってくる圧倒的リアリティがすごい。この人はたしかにこの世に存在しこのように考え発言し行動・運動すると強く感じる。そんな彼女がやたらめったら動き回る、異様に充実した特訓シーンに、特訓映画ブームの機運高まってきたのでは…?と思った(サンプル数少なすぎですが)。ほとんど今作では描かれなかった、実際に死神を代行する描写の代わり(代行!)なんだろうけども。

しかしあれほどいくつもチャンスがありながら(というか自分も、今作品を見てあらためて気づいたんだけど)全くと言っていいほどホラーではなかったの、そのすっぱりと切り捨てた潔さが興味深い(原作も初期はホラーみがあったよな)。
例えば、不気味な少女が登場し、彼女からさらに巨大な怪物が現れるというの、いかようにも見せ方はあったと思うんだけど、恐怖や気持ち悪さを必要以上にあおらない(例えば音響効果とか、映像的なエフェクトとか)描写になっていたように感じた。部屋の幽霊の登場や、一護の回想のカットの恐怖ではなくむしろ幻想的な雰囲気とか。
そもそも幽霊を映画に登場させることに全く恐れがない…って言い方が正しいかわからんが、躊躇がないって感じがする。…と考えて、そもそもこの作品での幽霊が、恐れる者として、人間にとって完全に他者として描かれてないからだな(人間の延長線上にいる)と気づいた。


それにしても恋次白哉の今作品での言動(原作でもあそこまでしてたか?と考えるとあそこまでではなかったかなーという気がする)、人間への差別的思想は、原作が実は内包していた血統主義(一護はなるべくして死神になった)を強調することになったと言える。ならルキアの出自についても…とは思うけどそれは次か。あと雨竜の口ぶりもそうだしね(あいつはもともとそうか)。


あと、別に欠点ではないが、気になったのは、制服が似合ってる似合ってないの次元を超えている真野ちゃん(だがそれにいささかの問題もないのですが)、戦闘シーンで流れるミクスチャーロックのセンスの久保先生っぽさ(原作準拠?)、今作の中でも最大級に虚構度の高いキャラクターである(だからこそ演じるのも扱うのもかなり難しい)白哉の登場のさせ方(一護の前に初めて現れる場所の抜けた感じ――恋次はまあまあカッコいい場所だったのに――、ロータリーに出てくる時の背景の看板)かなと。