クリストファー・マッカリー『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』


ローグネイションと今作は真の意味で2部作(直結してるという意味ではない、けど、2本を続けて1つの作品としても遜色ない)なので、さしずめ"fall nation"とでも言えばいいのかな…とか考えてた。


ちょっと…完全に動揺してしまった。ここまでの美しい、様々な光がデザインされた、完成度の高い構図の、パーフェクトなカメラ位置の画が乱発されるとは思いもせず…尋常じゃないな。
街灯や室内の明かりの、光の滲み方(J・J・エイブラムスのフレアをちょっと思い出すが、あれより確実にナチュラル)も印象深いんだけど、びびったのは輸送機の中のカット。外からではなく中から、あそこまで引いて全体をとらえた画はなかなかないんじゃないか。というのも、あそこには2人の男しかなくて、しかもその2人のやりとりを見せれば本来は十分なはずなのに(激しい格闘も、他にとらえるべきアイテムもないーー巨大な恐竜や、古代の遺物を運んでるわけでもないーーから)、顔もわからないサイズまでカメラが引いてある。それによって強調されるのは、飛行機内部のメカニカルさ、その全体の意匠や細部の質感。それは短いカットなんだけど、目を惹く美しさすらあった。
そして、予告でも使われてたトイレ(白い陶器、鏡)にしろ、最後の「村はずれの家」(古びた床板、縄)にしろ、ベルリンやロンドンの石造りの空間(暗闇と閃光、銃撃音)にしろ、格闘シーンを描く場所は、ある種の美的センスによって統一されてる。例えば、ゴーストプロトコルの同種のシーンはどこを舞台としていたかを考えるとわかりやすい(ブルジュ・ハリファや立体駐車場)。そこからローグネイションでは古い都市、その地の構造物を舞台とすることが増えた。
そして今作では、ゴーストプロトコルにさえあったような、(虚構であるにせよ)先端テクノロジーが使われた攻略の対象物(システムそのものや建築物)すら登場しない。
さらに作中使用されるガジェットも古典的なもの(もしくは古典的な装いをしたもの)にとどまっている。
なので必然的に、ますますクラシックな画作りに向かうことになるのだが、それと接続されるのが、異常で過剰なアクション、繰り返し行われるその場その場での"solution"の"figure out"(なんどこのセリフが使われるだろう)なのだから、ますます全体が歪なものになっている。
おそらくその、崩れた全体のバランスをある程度統一する機能として、ある物語が流入されるのだけれど、しかしそれがよりによって『オデュッセイア』で、本作によって、イーサン・ハントはオデュッセウスであるということが唐突に提示されてしまうのは、さすがに呆然とした(オデュッセイア読んだことないから適当言ってますけど)。
読んでなくともオデュッセイア貴種流離譚であることは知ってる。つまり、今作のみならずシリーズ全体を、イーサンの帰還の旅と再定義するということなのか(しかし、彼はどこへ帰り着くのか?)。
そして、少なくともオデュッセウスを待ち続ける妻ペネロペがいるのも知ってる。それがジュリアってことなんだろう。ならばその舞台をお膳立てした(って理解であってんだよな?)レーンがホメロスなのか???