ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン『スパイダーマン:スパイダーバース』

主人公マイルスがやたらと何かを運ぶ映画だった。しかもその輸送は常に失敗する。しかし最後には成功するわけだけれども…。

映画というのは、原理的には、撮影時に何度も繰り返し同じことを演じ、撮られた映像を何度も見て繋ぎ、完成すれば何回でも同じ作品として見ることが可能なメディアだ。

しかし、そうした形式の中、語られる物語に一回性が組み込まれることがある。例えば、たった一度きりの(あまり使いたくない言葉だけど)人生の、二度と同じことはない大きな経験や事件。そして、それに人は、本質的に一人きりで対峙するしかない(それは原則として誰とも共有できないから)。

それでも、そうであっても、そのひとときだけでも、人は、その場に偶々居合わせた他者に助けられ救われ、彼らと共闘し、一度きりしか使えないような方法を編み出してなんとか辛くも勝利を収める、ということが、映画の中では起こってしまう。起こり得てしまう。しかし次の瞬間にはまた切り離され孤独になる。ただそれは以前のそれとは異質なものになっているだろう。でも決して完全に孤独でなくなったということではない。

映画は、孤独の営為なんだけど、その上に、他者が貼り付いて二重になっている。そして、複製(芸術)・再現性・繰り返しと一回性・偶然性・取り返しのつかなさも二重になり、それらの間でぶれ続けている。

今作を見て感じたのは全能性、全てが可能になる(世界)、何でも起こってしまう、ということ。全て大丈夫、君は孤独じゃない、という励まし。そして、そのメッセージを求めている人にとっては福音だろう、ということ。それは前述の"一回性"と"再現性"という二重構造を突き破って(まるで、劇中に現れる、世界に穿たれた穴のように)、スクリーンに対峙する観客へと届けられる。

…そして、これは個人的な話に過ぎないのだけど、その福音を向けられている対象は、自分ではないな、という気もした。自分は、映画の"二重構造"にこそ惹かれているので。

路地裏の、外付けの非常階段、ゴミ捨て場、が何度も登場する。ニューヨークの、そして我々の知る「映画」の「スパイダーマン」の、アイコニックなトポスとして…キャラクターの造形は言わずもがな、こういうところにも、サム・ライミ版への目配せを感じた。