クリント・イーストウッド『運び屋』

ちょっとこれ、一体なんなんですかね。何を見たのかという。

これはもう、イーストウッドの『紋切型辞典』(フローベール)ではないかなと。携帯、メール、Google、「タトゥー」、綺麗に切り揃えられた髭、「マッチョ」、「タンクトップ」、…など、自分より”後から生まれたもの”についてのイーストウッドの所感が映画によって語られている。そして、『紋切型辞典』なので、カメラによるそれらの捉え方は、当然、風刺と揶揄と皮肉と諧謔に満ちてる。例えば、イーストウッド自ら演じる主人公アールを脅す、男たちをとらえるカメラの動き、画の構図。このカメラを動かしている者が愛しているものは何か、嫌っているものは何か、がはっきりとわかってしまう。ストーリーやセリフからだけではなく。

そして、このようなことを前から考えていた人間としては衝撃的な、ラストの裁判シーンについてhttps://twitter.com/niwashigoto/status/1086872682770063361https://twitter.com/niwashigoto/status/1086872682770063361https://twitter.com/niwashigoto/status/108687268277006336

アメリカ映画における「裁判」は、おそらく現実のそれをより強調する形で、アメリカという国家自体と、様々な、強い関係を持つものとしてスクリーンに現れる。

その関係とはなにか、といえば、「裁判」を描くことは、アメリカそのものを描くことであり、「裁判」はアメリカのミニチュアないしカリカチュアでもあり、その内部に、裁判所・法廷の中に、アメリカが内包されている、ということでもある。

それは例えば、アメリカにおける「交渉」であったり、「説得」、「告白」、むろん「ルール」、「罰則」、「敵対」すること、「家族」ないし「血縁」について、といった数々のモチーフが多層化し、登場人物の姿や声を借りて表出している、ということだ。そしてここに、「演説」ないし「演技」、「代理」といったものが加わることによって、アメリカ=裁判=映画の等式すら成り立ってしまう。

では、今作はどうか。

イーストウッドである(ともはやここでは言うしかない)主人公の、とんでもなく素早い手さばき(実際に動いているのは立ち上がる足と、喋る口だが…いやもしかしたら手を挙げていたかもしれないが…もしそうならさらに恐ろしさが増す)で、あっけにとられているうちに、場面が完結され、終了してしまう。

それは、上述のような機能とは、まったくかけ離れたものとして、裁判が、法廷が登場している、ということなのか。確かにその短さ、シンプルさ(「代理性」のなさ!)にそう思わされもする。

しかし、それは、ここでも、いや、なによりも、他のシーンではなく、このシーンにおいてこそ、主人公であるイーストウッドが、「これ」こそがアメリカであり、アメリカ映画なのだと、示しているように思える。ここにまったく根拠が記せず、ほぼ直感でしかないのは承知の上でこう述べるが、でも決して、自分個人だけの感覚ではない、とも思う。ただ一つ、誤解を恐れずに根拠めいたことを言うならば、これはもはや、「早撃ち」のアクションなのだということだ。

それがかつて過去にあったものなのか、過去にあり今はもうないものなのか、これからの未来に来たるべきものなのか、想像なのか予言なのか。そのどれもあるし、どれでもない、奇妙で恐ろしいシーンとして、映画の中に(「私」の中に)残り続ける。

ちょうど同時期に(「映画の魔」的に)、丹生谷貴志「崩壊に曝された顔」(『ドゥルーズ・映画・フーコー』所収)を読んでいたが、まるで今作を見て書いたような論考だった(書籍化の際の書き下ろしなので発表年は1996年)。

《だから、「戦後映画」が或る政治性、政治的視点を採用することを必要条件とすると言うのならイーストウッドは「戦後映画」的ではない。しかし逆に、頻繁に戦後世界の大問題、崩壊に曝された世界という問題を取り上げようとする東海岸映画作家たちと並べるとき、「戦後映画」に忠実なのは明らかにイーストウッドの方なのだ。何故なら東海岸映画作家たちの身振りの大部分は、崩壊過程を見据えるように見えて実のところ、崩壊過程を引き受けそれに身を曝し耐えようとするのではなく、崩壊を単なる事件として捉え、それに道徳的な(或いは道徳的情報開示とでも呼ぶべき)決着をつけようとするものに過ぎないからである。それに対し、イーストウッドは崩壊過程に身を曝し、それを自身の映画の倫理にする。》(p280)