兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』

あるひとつの「もの」(他者、外部、環境)があり、そして、それらが、この世界の、時間の流れの中で、複数になる時、その「もの」たちが、反復し、時間的に連続している、統一されていると感じて・認識して(「縮約」して)、その「もの」たちをカテゴライズし、名づける、そのような仕組みを持つ存在こそが、「わたし」である。

つまり、「わたし」が先行するのではなく、「もの」たちによって、「わたし」が形作られる、ということ。昨日と今日の「わたし」が連続した存在であると保証する力は「わたし」自身には無く、「もの」たちの方にある。

そして、(精神的に、ないし肉体の機能的に)「もの」たちが反復・連続していると認識できなくなる時、「もの」たちが一つ一つ、全て一回性の存在となり、「もの」たちと都度都度初めて出会いなおし続ける事態になった時、「もの」たちによって担保されていた「わたし」の連続性は断ち切られ、「わたし」は成立せず、融解することになる。

本の中に登場する、芸術と哲学と科学を、2つのベルクソンの「縮約」を軸に一つながりとして提示した図が、めちゃくちゃ腑に落ちた。上記の言い方で言うなら、芸術は、"「もの」たちと都度都度初めて出会いなお"す、"全て一回性"の営為であり、科学は、"「もの」たちが、反復し、時間的に連続している、統一されている"前提のもとに成り立つもので、哲学はこの2つの間をどうにかしてとりもとうとしている、という感じ(でも哲学は、とりもつ前には興味があるけど、とりもった後は科学に任せてあとは知りません、という感じ)。

https://twitter.com/niwashigoto/status/1133613653175914497

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