リドリー・スコット『ゲティ家の身代金』

劇場で見れず、ブルーレイでようやく鑑賞。見終わって、おもしろすぎて放心状態になってしまった。近年のリドリー・スコット作品の中で一番好き。さらに言えば、今年見た映画の中で(とか言っても大した数見てないけど)一番食らった。

 

異様に細部が艶やかな画面によるオープニングから始まり、CGI、セット、ロケ、ともかくむちゃくちゃリッチな、半端ない画が乱れ撃ちで圧倒される。

金、価値、「肉」と肉体、冗談("joke")と嘘と真実、芸術と税金、無数のモチーフが、ちりばめられ多重化し、焚かれたフラッシュの点滅のごとく我々の目の前に次から次へと休む暇なく現れて混乱させながら、この映画の「世界」(All the Money in the World)へと引きずりこむ。

 

そして、ある種時流によって起こったキャスト交代劇があったが、それ以前にもそもそもかなり反時代的な作品だと思う。

 

誘拐されたポールの母親ゲイルが、孤軍奮闘する、そして事件解決への道を切り開く、という風にこの映画を切り取ることには違和感を覚える。

 

売春婦、ゲティに無視される秘書(なぜか彼女は早々に映画から退場し、代わりに常にその名をゲティに呼ばれる男性執事が登場する)、誘拐グループに常にいる家事・炊事をこなす女性、クレー射撃をする(孫?)娘(?)たち、身代金を数える女たち、と、同じように、結局の所、核心の部分で、彼女(たち)は事件の(「映画」の)蚊帳の外に置かれてはいないだろうか。彼女が「交渉」をする時、そばには常に弁護士か、警察がいるのも象徴的だ。

 

「女には交渉はできない」というセリフ、そしてこの映画における最大の交渉は結局男だけのものであったり、「女には苦労するな」「もうしてます」という男同士のやりとりとその場にいるゲイルへの目配せの薄気味悪さ(とあえて言おう)……この事件を動かし、進展させるのは、被害者の少年の家族でも、事件の周囲に現れる女性たちでもなく、彼となんら血縁関係のない、偶々彼と関係を持ったに過ぎない男たちだ。

 つまり今作も、やっぱりここで書いた通りの反血統主義、反出生主義なんだと思う(そこに反女性主義すら読み取るのは穿ちすぎだろうか?)。血統への固執、こだわりの形をとった忌避、というねじれた振る舞いが為されている。