ジョン・ワッツ『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

ヴェネチアでの序盤の戦闘シーンがバスター・キートンみたいで最高!…まぁあれを実際にやってたキートンはすげえって話なんですが(という以下に関係のない感想のようだがあながちそうとも言えない)。

 

映画を見ることは、始まりからイメージに騙られることだ。それは映画が終わるまで続く。終わると同時にしか、我々は騙られていることに気づくことができない。

この「始まり」と「終わり」は、全ての個々の映画作品におけるのはもちろんだが、もしかすると、映画の歴史という単位においてもそうなのかもしれない。

ならば、我々は、映画が誕生してから常に、たとえ映画を見ていない間でも、イメージに魅入られ、幻惑され、捕らわれ、騙され続けているだろう。

映画と現実の区別をつけることなど不可能であり、いわば、映画は終わらない、ということ(映画の歴史が終わらない限り…だがそもそも歴史が存在するのか、という問いはある)。

これを、互いに打ち消しあうフェイクニュースの延々と続く応酬、ディープフェイクなどの発展する科学技術による事実と虚偽の判別不可能性の強化、という現代の状況にあてはめることもできるだろう(そのような状況に、『ミスター・ガラス』を想起してしまった。MCU史上最もシャマランに肉薄した映画…)。今作のヴィランは、「まだ」フィクションの領域だが。

そして、今作を貫くのは「継承」というテーマであり、それはまさに、負の遺産も含めて、継承され続ける限り、何も終わることはできない、消滅することはないということではないだろうか(トニー・スタークも見舞われた事態だ)。

――さらに付け加えるならば、『スパイダーマン』の映画、作品群は、いかにサム・ライミ版を継承するか、に、後続の作品として挑み続けているとも言える(『スパイダーマン:スパイダーバース』はその典型だ)――

終わらないこと(戦いに終わりはない)、それ自体を継承する、ということ。たとえ子ども(たち)であっても、いやもしかしたら、未来のある存在であるがゆえに、そこから逃げることは(ジョン・ワッツ作品においては!)許されない。彼(ら)は強制的に、行き先を決め続けられる(「乗り物」に乗せられることによって)。なんと救いがない状況だろう。それが現代の(西欧諸国を放浪する少年少女による)ビルドゥングスロマンなのだろうか。そしてたどり着くさらなる苛烈で厳しい世界。そこでいかに生きるか、次作で提示することはできるんだろうか。