アダム・マッケイ『バイス』

ともかく、「一度終わって、もう一度始める」という構造が繰り返されていた。

そして、もう一度やる時は、前とは違い、使われるものはまがい物になってる、ということでもあった(むちゃくちゃな法案の中身は変えずに成立させるため、「規制緩和」である、という根拠をあてがって国民の支持を得ようとする、ような身振り…)。

さらに、もう一度始めた時には、前よりも状況は悪化している。

しかもこの悪化は、チェイニーに言わせれば、もし「もう一度」やっていなければ状況はもっと悪かった、ということらしい。当然それを証明できる人間は誰もいない。

この一連の流れとむずびつくモチーフとして、「フライフィッシング」や(他人の)「心臓」が登場しているのかなと。

それは、チェイニーという、秘匿的で、つかみどころのない人物を映画化するにあたり、その取っ掛かりとして利用する、かろうじて明かされてる「事実」のモチーフでもある。

ただ、楽屋オチ、笑わせる編集、ぶつ切りの音加工、本編のストーリーから逸脱した人物によるナレーションや解説、などのアダム・マッケイ節が、観客を映画に没入させることを阻止していて、それは、この映画(で語られていること)こそ、(複数の次元において)「にせもの」である、ということを示しているわけだが。そして、ここにおいて、クリスチャン・ベールの肉体変化を本当にやっていることはどういう意味なのかという(数々のブロックバスタームービーで使われるようなCGIによる加工、ではなく)。