歌うことと踊ること(歌わないことと踊らないこと)

うろ覚えなので自分で捏造したものであったら申し訳ないのだけれど、ジェームズ・ディーンが、何かのショーだかテレビ番組だかに出演した時、自分は歌が下手だからその代わりに、と言って、歌に合わせてリップシンクしながらダンスをした、というエピソードを思い出した。たとえ歌えなくても、踊れなくても、音楽によりそって、できることをする。

音楽に対して、歌わず、踊らず、なにもしないこと(聴きもしない!)は、音楽を、歌と踊りを相対化させる。つまり「ネタ」化するということだ(だから私は、ただ喋っている大泉洋や真顔のバナナマンが、かなり早い段階で登場してしまったことには危うさがあると思ってる)。さらにそれは逆張りってことでもある。

逆張りは、まず寄る辺、寄る大木がないとできない。太田光が、ビートたけしは、笑いで前提となるような正論を全てひっくり返してしまった(赤信号になるとみんなが止まっていたからこそ、「みんなで渡ればこわくない」が笑いになった)、なので自分たちは何もない焼け野原でやっていくしかないと吐露していた。

だからそういう逆張りの人たちこそ、自己責任(論)を語れないはずだ。真っ当さ、一般論、常識、正論と呼ばれるものがなければ自分たちは存在しえなかったんだから。

多分たけしは、一旦寄る辺的なものが何もなくなったところから再構築されたという歴史を体感してる。それが、結局甘える存在が最初からあった(ダウンタウンのネタを全然笑わなかった寄席の老人たち!)松本人志と違うところだと思う。

でも、舞城王太郎が『阿修羅ガール』で、子供の死体で阿修羅像を作ろうとした殺人鬼に対して《(…)作意のそもそものところはいいものだったし、いい事をしようとしたということは、(…)いいところがあったということだし、いいところがあるということは、結局のところ、いい人間だったのだ。》と書いたように、例えば『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』を、もちろん批判的な観点も常に交えつつ、作品の良さを、使える道具、として参照すべきだろう。

歌わない、踊らないことは、歌い、踊る人がいるからこそできる。本当に歌うことも踊ることもできない人のため、少しでも歌えるなら、踊れるなら、下手でもいいから歌い、踊ってほしい。