「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー)


展覧会のタイトルを挙げてはいるものの、他の作品も良かったんだけど(山本高之『悪夢の続き』とか)、ここでは、百瀬文『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』について書く。スリリングすぎる作品だった。

耳の聞こえない男性との会話である、ということから、音と言葉についての作品だとまず思って見ていくんだけど、"トランジスタ・テレビ"のアンテナを動かしてノイズを消してサイレントの映画を見る、という挿話が登場し、それに引き込まれ、これは動きと映像についての作品でもあるのだとわかってさらにテンションがあがった。
そこから、まるで長いディゾルブで、ある映像から次の映像へ切り替わるように、じわじわとある変化が起こり始める。
もし現実に、作品の外でその現象が起こるならば、ある種の悪意が存在すると解釈されてもおかしくない類のもので、おそらくこの作品においては、あらかじめ了解をとった上で行われている行為であるはずだけどしかし、それは人間同士のコミュニケーションに潜在的に含まれているある種の不可能性、機能不全を指摘するかのようで端的に言って恐ろしく思えた。
しかし、木下知威さんという人の、知性をガンガン感じる語りによって、その恐ろしさが中和されていく。ただそれもまた別種の恐ろしさなわけだけど。恐ろしさというより畏怖か(…同じか)。
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会話する2人の後ろの本棚を終始気にしてた。百瀬さんのアップの画の時に、三浦哲哉『サスペンス映画史』、『タルコフスキーAtワーク』、アラン・ブルームアメリカン・マインドの終焉』、岩波文庫ホッブスリヴァイアサン』が確認できた。

劇団ひとり『浅草キッド』


風間杜夫が出演するシーンにカンディンスキーがあるのは一体誰のアイデアなんだろうか。それとも史実の通り?なんだろうか。もしかしたら、「北野武監督」の発案かもしれない。いかにも言いそうじゃないですか。…単なる妄想ですけど。
まぁ、それは置いておくとして、まず原作未読なので的外れかもしれないことは言い訳しておきたいけど、とりあえず、分裂する「たけし」のエンターテイメント賛歌であり哀歌である、という意味において、劇団ひとり監督の(『HITORIS'』ではなく)『TAKESHIS'』である、とはまず記しておきたい。「おもしれえ死に方して笑わしてやるよ」というセリフの、ゾッとする感じ……。
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なぜタップにこだわり続けるのか。もちろん師匠に教わったことだから、という理由だけで十分なんだけど(そしてこれは反PC的解釈だが、チック的行為の延長線上としてのタップ、というのもあるだろうけど)、さらにこの映画は、タップとは、待ち時間、停滞する時間、そしてそういったことを行う場所そのもの示している、と看破していて、ハッとさせられた。
エレベーターが目的の階に着くまでの間、または、出番前の舞台袖で、観客がいるわけでもなく、ひとりで、ステップを踏む。
そして、それは、誰も見ていないに決まっていて、でも、誰かに見てほしい、だから、誰かが見ててくれるはずだ、という、何か、パフォーマンスとか、または修行や鍛錬とか、そういったものとは別種の行為(祈り?)のように立ち現れてくる。自分だけのものではない、矛盾するようだけど、無時間的な時間の現れ、というか……。幾つか登場する鏡のモチーフもここに関わりがあるような気もする。誰も見ていない、自分しか見ていない、でも、そう決めつけられない、踏みとどまらなければならない何かがある、というような。
そして、言わずもがななわけだけど、ビートたけしという人物にとっても、浅草で過ごした時は、ある種の待ち時間であった、というわけだ。出番が来て、表に出たら、もう戻ることのできない、不可逆の時間。
終盤には、まるで走馬灯のようなシーンも存在する。そこで描かれるのは、どの時間にも属さない浅草だ。
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前作『青天の霹靂』同様、ラブホテルのベッドとフランス座の舞台が、回転という運動によって結びつく、というような、ひとつの運動が異なる時間と場所を繋ぐシーンがいくつかあるのは作家性なんだろうとは思うし、さらに、ワンシーン丸々、ともかく長くカメラをまわすことに意義がある、といった類のものとは異なる、メイキングで大泉洋さんが、背中からタップを踏んでるのを撮るなら吹き替えでもいい、と冗談を言っていたが、もちろんそんなことはなくて、歌やダンスの技術、動きをきっちり見せるための、だから俳優もきっちりやらなければならない、ワンカットが炸裂しまくっている。
また、人物の表情が変わっていく、「いい顔」になるまでを、きちっとひとつのカットとしてとらえているシーンも存在する。これも逆に言えば、俳優たちは線的な、一連の流れで自分の表情、感情を変化させていかなければならないわけだけど、しかしそれは当たり前のこととしてこの作品では求められているようだ。
そして、投げた缶を受け取る、お茶を注いで渡す、といった日常の動きの、カットの割らなさよ。この監督はとにかくやらせるのだ。
それが、監督自身が、舞台の上(カメラの前)ならなんでもやる(やり続ける)「芸人」だから、そしてそんな芸人という存在を愛しているから、という理由であるとするのはいささか無理矢理かもしれないが。ただ、観客が1人しかいない、その1人も帰ってしまう、という恐怖のシーンには、芸人特有のパラノイアックさがあったとは思う。
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渥美清萩本欽一、という名前を出すことで、浅草芸人の系譜を提示し、そしてそこにビートたけしを連ねなければならない、という姿勢を感じた、ということも、忘れないようにしたい。

フレデリック・ワイズマン『ボストン市庁舎』

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たとえば"respect"、それから"immigrant"、そして"community"。
英語を使えない人間として、この約4時間半の映画を見ていくと、次第に特定の単語群が自分の中に残っていくのを感じる(おそらく多用されているということなんだろうけど)。これらの言葉、その扱われ方は、ある種のアメリカ的精神性を提示しているだろう。
ただ、語る人々の姿からも伝わる、そこに込められた高い熱量によって、矛盾するようだけど、完全に言葉だけでは、その精神性を表現できないんじゃないかと、ほとんど直感的に理解してしまった。だからこそ、完全に日本語に翻訳しきれない何か、が残っていると感じたりもする。日本語にこの熱量はそもそもないんじゃないか、と。
それを考えるために、"home"と"job"という2つの、語り口や切り口を変えて、これもまた本作中に繰り返し登場する言葉に関しての、言葉の存在しないいくつかのシーンについて、ここでは触れたい。
それは、前者で言えば、愚直な編集で、定期的に必ず挿入される、青空を切り取り光と影を切り替えるボストンの街並みと建築物である。
これらは前述の精神性が宿るものとして現れており、それは、歴史がある、建築史的に価値があるからということではないので、だからこそ、新しく作り出されるものや、今人々がまさに住んでいるもの、も同様であるべきだという価値観があることを示している。
そして、後者ならば、労働において、無言で体を動かし続ける人々の姿。日本なら明らかに粗大ゴミのサイズのものを延々収集車に投げ込む。接着剤を塗った車道へ赤い樹脂?を撒く動きの規則正しさ。運動、手の営為としての仕事。
この作品が、指輪、食事、書類が人から人に手渡される、「手渡し」の映画であることも、忘れたくないと思う。
なにが言いたいのか?つまり、この映画における、対話、会話、言葉だけに注目することに違和感を覚えている、ということ。
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本作中で回答する側として登場する人々はいずれも真摯に対応をしている、と感じるがしかし、対話、会話、言葉のやりとりだけで、事態を進行していく、改善していくことには、説得的な、論拠を出して相手を説き伏せるような要素を含まざるをえない。
駐車違反時の事情を説明し、その内容で違反を軽減するというシステム(日本にも存在するのか!?寡聞にして知らない…)が描かれるシーンは、この映画で、印象に強く残る、個人的にとても好きなシーンのひとつだ。でもそこにすら、何か、根本的な問題が潜んでいるのでは、と思ってしまう。そしてそのひっかかりを退けるような、何かが変なのに変だという感じをつかませないような、ある種一元的な、シンプルで、パターン化された映画の作り。その映画の(強い言い方をあえて選択するけど)詐術によって隠されているのは、もしかすると、すでに現代において無効化しつつある西欧近代的な価値観なんじゃないか。これはスパイク・リーアメリカン・ユートピア』にも通ずる話だ。


そして例えば、この映画を見た人間の誰もが忘れられないマーティン・ウォルシュ市長の、登場のさせ方について、あるシーンの最初から現れるパターンと、シーンの途中から現れるパターンがあり、後者を、映画である以上当たり前ではあるが、特定の場面において恣意的に選択することで、観客に与えるインパクトを意図的に強めている(まるで『ダークナイト』の取調室のシーンにおけるバットマンのように、まんをじして現れる市長!)ことや、終盤に「星条旗よ永遠なれ」の高揚感あふれる歌唱シーンを配置したことを、一概に称賛してよいのか、という気にもさせられる。無論これこそ映画的な素晴らしさなわけだけど。
それにしても、「星条旗よ永遠なれ」の歌詞の、なんと好戦的(としか言いようがなくないか!?)なことか。今作の、退役軍人たちの集会のシーンで語られる言葉の中に、自分からしたらゾッとするような要素が含まれていることも思い出したりする。起こった過去、それによって引き起こされる現在、を肯定しなければならない、という観念……。
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なんだかまるで冷や水をかけるみたいな論旨展開になってしまったが、仮に前述のようなことがあったとしても、この映画で描かれ続ける、なんとか保とうと皆が懸命に努力している、言葉への前向きさは、肯定すべきだと思う。英語でなんと言っていたかは聞き取れなかったけど、ボストン市内の住宅に関する、「立ち退き」をめぐる人々のやりとりには舌を巻いた。いかに立ち退かせるか、ではなく、いかに立ち退きをさせないか、立ち退かされる人たちを作らないかという発想の、一瞬理解しにくいと思えるほどの、鮮やかさ。
それに何より、この映画で選ばれた場面は、決して明確な答え、解決が提示されるばかりではない、というのも重要だろう。説明し尽くすこと、カードを掲げ主張すること、同じ問いの繰り返しになろうとも対話をやめないこと、それらは全て、何かの終わりではなくて、目的に行き着くための過程、「途中」である、ということ。
ところで、この長尺の映画を見に来ることができない、しかし本作で扱われているモチーフに親和性が高い、本作のような映画を必要としている人々に対して、すでに観客となった我々がどうすればよいのかも、この映画の中では描かれている。観客の誰もが印象深いと感じるはずの、大麻ショップ建設に関わる集会のシーンで、出席者の一人の女性が語る、集会に来られなかった他の住民のために、集会の内容を、主催者の代わりに説明する、といったことを、観客も行えばよい。
(しかし本来であれば、誰もが集会に出席し、誰もが映画を見に来ることができる社会となることが、望ましいわけだけど…)
そして、説明の重要性を描く作品でありながら、ナレーションやらテキストやらの、映画としての説明は一切なしに登場する、ボストンの街角に佇み、街路を歩く人々の姿は、おそらく"home"からも"job"からも追いやられている住民の存在を示唆している。彼らの問題もまだ未解決のままなのだ。

國分功一郎『はじめてのスピノザ』を読んでいたので、またしても、ちょうどたまたま読んでいる本の影響を受けて本作を理解しようとすることになってしまった。

ローソン・マーシャル・サーバー『セントラル・インテリジェンス』

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今作に関しては、ツイッターでも言ったんだけど、完全にこれだった。


トム・クルーズ(なお本作には"I'm Scientologist"なんてふざけた台詞も登場します)の陽性の不穏さを思わせる、信頼できないと観客には思えてならないドウェイン・ジョンソンを、なぜか最終的にはいつも信じてしまい、従ってしまうケヴィン・ハート。前者の運転する、あらゆる乗り物によってひたすらに後者が運ばれていくというのも、『ナイト&デイ』を思わせる奇妙さだ。もちろん運ばれる存在はヒロインであって、だからこそ、自分で運転すると事態は悪化するし、最後には『すてきな片想い』オマージュが炸裂し、「ロック様」がお迎えに来てくれるのだった。ちなみに、全く関係ないけど、もう一つ今作にタイトルが登場する作品である『グッドフェローズ』も、ある意味、人を乗り物で運ぶ映画、と言えるかもしれない。それと疑心暗鬼になる人間の話という共通点も……?(ありません)
そして、登場するキャラクターを、完全にリベラルである、とは言えないけど、アメリカ映画的類型から微妙にずらして描いている。『スカイスクレイパー』『なんちゃって家族』と続けて見てこの映画作家の特殊さに確信を持った。ただ、Pornhubとか、ペニスが巨大化するアプリとか、オフィスでポルノを見ちゃうとかの、愚直な下ネタの扱い方があり、それはまぁ、作家性なのかもしれない……。
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本作では、閉鎖された空間において虚実の境が曖昧になる。家の中や運転席はもちろん、パーテーションで仕切られたデスクやオフィスの中の小部屋、そして白眉となるのはカウンセリングルームだろう。最も信頼関係が存在しなければいけない空間において、嘘をついているのが誰かわからない、という状況が発生してしまうというでたらめさ。そしてそんな空間がまさかの告解室と化してしまうというやばさ。強引に心中を告白させられ、言いくるめられる……。
あとはアクション映画としての細部にグッときてしまった。オフィスでの戦闘でコピー機のトナーを撃つなんてすばらしい工夫が見られるし、私の大好きな『2ガンズ』の、逃走時に車を破壊していくやつを見ることもできたので最高でした。

「和田誠展」(東京オペラシティ アートギャラリー)

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和田誠自体が好きな人は当然行くとして、コマーシャルグラフィックが好き、装丁が好き、映画が好き、ミーハーでテレビ好き、…にどれか一つでも当てはまる人は見に行ったら脳の神経細胞バチバチに繋がりまくる快感が味わえる。と同時にむちゃくちゃな仕事量、仕事の幅に当てられて疲れ果ててしまった。
この膨大な量を辿るだけでも、例えば似顔絵だったら戦後日本の芸能史ができてしまったりなど、ある種の文化史ができあがってしまうという素晴らしさ。
そして、たとえば資生堂CMや、フジテレビのゴールデン洋画劇場のオープニングなど、こういうセンスを持った、決定権がある人が昔はいたんだな、と思わずにいられない。今はキモい趣味のオタクしかいないもんね(暴論)。
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教養があって、センスがあって、手のはやさに裏打ちされた仕事量があって、ある程度裕福であり、対象とするモチーフやパロディ元との距離感が絶妙である、ということを一言であらわすとしたら何になるだろう。まぁセンスがいいってことになるかもしれませんが。アンチスノッブ、みたいな。だけどある種の俗物さもあるからな。もちろん良い意味でなんですけど(ミーハーな感じとか)。
決めつけの感が否めないのは承知の上だけど、要するに都会的である、ということかもしれない。都市じゃないと生まれえない質があるという感じがした。
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雑感

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かっさーの卒業によってひさしぶりにハロのことをぼーっと考えたら(というか「ひさしぶり」である時点で終わってるわけですが)、今の自分が、ここまでハロと距離を感じている理由はやっぱり嗣永さんのことだなと気づいた。あの時からじわじわと離れていった感じ。それにあわせてカンガルのその後の展開、元メンバーの顛末も。もちろんもりとちががんばっていて、いずれはてっぺんとってほしいわけだけど、それでもなにか、むなしさがある。
これと似たような感じが、ジャニに対してもある。まぁ、SMAPの話です、要は。あれに関しては、あんなことがあって、それでも熱心になり続けられる人はすごいなと思うくらい。だって明らかにおかしかっただろう。その後のいろいろなグループの解散の経緯を見るにつけ、余計にその思いが強くなる。最後に最高のアルバムが出るわけでもなし、あんなにテレビに愛されたグループの終わりになんのスペシャルさもなかったし。ライブとかめっちゃ行ってた人とかはさらにショックだったんじゃないですか。
ハロの話に戻るけど、それはそれとして、『アンジェルムック』にもりあがった人間としては『Dear sister』は買おうかなと思ってはいます。
まぁしかし、ろくに金も時間も使ってない人間がつべこべ言うことではないな。
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こないだふと、いま自分が欲しいものをメモに羅列していったんだけどほとんどが服関係のものだったのでちょっとびっくりした。そんなに服が好きになったのか、自分は。現時点で山のように持ってるわけだけど、それでも普通にばんばん買ってしまうもんな。それを言ったら本だってそうだけど。いま読んでる本を読み終えてないそばから新しい本を買うというやつ。そしてそれを読み始めちゃって、どんどん読みかけの本が増えるというやつ。不毛。ツイッターとかユーチューブ見てる場合じゃないのよ。このペースじゃ絶対年内に『失われた時を求めて』読み終えることは不可能。
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Apple Watchをちゃんと使いこなせないまま、ただの時計として身につけている自分が恥ずかしい。なんかめちゃくちゃ年寄りくさくないですか。別に年寄りだから悪いわけじゃないのであくまで自分だけの話なんですけど。Apple Payとかやってないし。ワイヤレスイヤホンも持ってないし。
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小説は、ひたすらWorkflowyに書きこみまくってるんだけど、これが形になるのかは全然自信がない。書いててこれめちゃくちゃおもしろいなと思ってる時もあるけど、それが小説になるのかといえば、っていう。てか納得いく書き出しも、ストーリーも、登場人物も作れず、ただ断片的に自分がテンションあがる考え方や細かい展開があるだけ、ってのはどうなんだろう。ダメな気がします。あと人に話そうと思って言葉にするとつまんないような気がしてできないのだった。
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Netflixろくに見れてないんだけど他のサービスに入りたい、でもどれがいいかわからない。ディズニープラス、入っても絶対オリジナルのやつ見れない自信ある。U-NEXTもいいけど、名画的な見れるやつ多すぎる。あとAppleオリジナルのトム・ハンクスのやつ見たいけど、どういうふうに見るのが一番いいのかわからない。わからないわからないばっかり言ってるがこの「わからない」に若さがないのはわかってる。
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リドリー・スコット『最後の決闘裁判』

最初、chapter 1の編集があまりに小刻みすぎて、余韻もくそもなく感じ、これはちょっとなぁ…と思ってたら、2に入っていき、尻切れトンボなカットが、繰り返されて積み重ねられ、観客=自分の中に蓄積されていくような感覚を味わい始めると、じわじわと、本作の捉え方・見え方が変わってくる。その映画というメディアゆえの作られ方に感じ入ったりもした。
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ピエールの初登場シーンで、かしずくカルージュにあからさまに不快感を示すベンアフの顔の演技があまりに"アメリカ"すぎるだろ!と思いました。というかその後も基本そんな感じだし、14世紀が舞台の映画なんて久々に見たもんだから、まず初歩的なところでつまずいて…英語(人名とか地名とかフランス関連の固有名詞を言うから余計に気になるよ!歌はフランス語だし!)とか…そんなことハリウッド映画に言いたくないけども…あと14世紀の兵士はあんな喧嘩殺法なのか!?とか…ってつまり出演者がみんな現代からタイムスリップしてきた人たちみたいに見えてきたってことかと。あと遠景の合成っぷりもすごいよ(超引きの画で、フィックスだから気になるのか?)。でもその見え方にはそれなりに意味があるのでは?扱ってるモチーフは極めてアクチュアルなわけだし(強引)。とかなんとか言って結局私も(てか誰1人)14世紀の人間が実際にどんなだったか、どんな動き方、喋り方、表情をしてたかわからないわけだから、でまかせでもいいんでしょうけど。でも資料文献として残されている人々の考え方とか、価値観は再現できるんですが。そしてまさにその「価値観」が本作のテーマのひとつでもあるかと。何に重きを置くか、何が軽んじられるか。そしてそれらは現代と違うのか?それとも?という。
あと印象的なのは、裁判の時のマットの面!あのとりつく島もない感じの、話が全然通じない感じの顔…コワッとなったね。無論現代の俳優においてそれを得意としてるのはアダム・ドライバーなんだけどそれに負けず劣らずだった。アダムよりマットの顔の方が強調しているのは、マッチョなセクシストのどうしようもなさ、変わらなさ。そしておそらくこの映画にはマッチョなセクシストしか存在しないということ。そこにマルグリットという別種の価値観が現れる異様さ。
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それにしても、アダム・ドライバーには、もしかしたら、"キリスト性"とでも呼べる何かがあるような気がしてきたな。本作の終盤で現れる彼の姿はあからさまに"そう"じゃないですか。というか、もちろんスコセッシの沈黙は言わずもがな、カイロ・レンも、『パターソン』『ローガン・ラッキー』『ブラック・クランズマン』『マリッジ・ストーリー』でも、全くありえないことなのですが、彼はキリストだったんじゃないか、と思えてしまった。…まぁこれは最近、岡田温司『キリストの身体』を読んだばっかりだからそう感じたのかもしれない。西欧の表象にはすべからくキリストが潜んでいる……。

あと、ル・グリの横でずっとニヤついてるお前のせいでもあるだろ!!!というメッセージは最後に発しておきたい。