アンディ・ムスキエティ『IT/イット “ それ”が見えたら、終わり。』


今年最高のサマームービーだった。もう冬だけど。誰かが言及してた今作の恐怖演出の"下品さ"、の意味わかるけどそれはそういう風に作ってるからということだと思う。お化け屋敷のようなあからさまさ、抑制のなさ。そして、この映画見た人100人中100人が同じこと言うだろうけど、ベバリー役の子の面構え半端なかったな。本当に現代の子どもかよ、という。私世代(フルハウス世代)としてはどうしても、オルセン姉妹に似てる!とか言いたくなってしまうわけですが。


"赤"のイメージが、凶兆から吉兆へ反転する。ペニーワイズのグロテスクな唇と逆立った赤毛、風船、吹き出る血、地図上で下水道を示す線、不吉な贈り物、は、口紅で上書きされる"V"と、少女を現世に結びつける詩、契りの証、へと裏返る。それからブラウン管に表示される禍々しい歌詞の赤いテロップも、同じ文言が子供達から放たれることによって裏返る。


この映画には登場人物が文字を書く描写が数回登場するのだけどそれらは一体なにを示してるのか…と考えた時に、書いた文字ないしは文字を書く行為が、それを書いた人間の元に(別の形で)回帰するということなんじゃないかと思った。
というかこの映画自体が「過去を繰り返すこと」「かつていた場所に戻ってくること」に貫かれてると言えるな。子供達の行動がまずそれだし、今作がCHAPTER ONEであることもそうだろう(再訪は約束された)そしてペニーワイズの齎す"恐怖"は"引用"であり、一度起こったことを下敷きにする、過去のイメージを利用してる。だから真っさらな"白紙"の上には起こりえない、一度でも何かが書かれなければならない、と言える。
そして、手放したものが再び手元に戻ってくること。夏は終わるけれどまた来年もその先も夏がやってくること。

「文字を書くこと」が重視されてることは、登場人物たちが子供であるにもかかわらず、学校での授業風景が一切描かれない、ということが逆説的に示してるのでは?と思う(もちろん早々に夏休みに突入するからなんだけども!)
そうなると、あの思わず快哉を叫びたくなる"捨て去り"のシーンもまた違った意味が出てくるのではと思う(あそこは最高!)。彼らの文字は、規範から解き放たれている、ということ。

ところで、この映画において書かれた文字たちの中で、おそらく唯一、回帰していないものがある、と思う。それは多分ノート、もしかすると日記帳?かもしれないのだが、それが戻ってくることはあるのだろうか(というのは原作読めという話?)。


で、今作でやってることとほぼ同じことをさらにハイクオリティにやってのけてしまってるのがティム・バートンミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』だと思う。というかこの『ミス・ペレグリン〜』自体が非常にスティーヴン・キング的な物語だと気づいた。さらに、思い出したのは貴志祐介新世界より』で、というか『新世界より』自体がめちゃくちゃスティーヴン・キングだってことだと思う。あと関係ないけど『宝石の国』も『新世界より』っぽくないか?
つまり、我々の想像力はスティーヴン・キングの作った土台の上に形成されてるんだな、という当たり前の事実をしみじみと感じた。


あと、原作読んでれば自明のことかもしれないけどペニーワイズが町の地下に張り巡らされた下水道を使ってるのって蜘蛛の巣のイメージなのかな。そこにひっかかってくる獲物を待ち構えてる的な。