スティーブン・ソダーバーグ『ローガン・ラッキー』


最高の映画。今年はこれと『パターソン』だけでいいネ(アダム・ドライバー"戦地帰り"二部作!)。チャニングはアメリカのアニキ、アダムはアメリカの弟……という意味でも(?)本作は「兄弟(兄妹)映画」です(3人兄弟/兄妹が2組登場するというおかしさ!)。


総じて、アーヴィングの小説のような質感。つまりアメリカ文学なんだけど、ただ、文学っぽくなる寸前で引き返してる。めっちゃ簡略化すると語られる言葉や人物描写は文学、しかしストーリーや映像描写(映像だから当たり前じゃんってことなんだけど、作品によってはそうなってないのもあるからね)は映画の域にあるってことかな〜よくわかりませんね。ちなみに『パターソン』もこれにあたると思うよ。
さらにざっくりまとめてみると、「言葉や人物描写は文学」ってどういうことかと1つ例示すれば、ある特定の言葉には、そのままの意味とは別の意味があるってことだと思う。多義性、ってことかと。
例えば、劇中で出てくるものならば、Rihannaの「Umbrella」は"Vagina "だし、開かない扉を開ける為には一度閉めなければならない、というエピソードとか。
さらに本作のタイトルに含まれている"LUCKY"。映画の中では、物事がうまくいくこと、だけが描かれている、し、一見うまくいかないことのようであっても、うまくいくことへ回収されていく。それが"LUCKY"なのか、と考えると必ずしもそうとは言い切れないと思う。この言葉に含まれてる、「偶然」の意味と一致しきらない奇妙さがあるから。
逆に、ローガン家の"呪い"というか"不運"というか"不幸"というか、そういうものがしょっちゅう言及されるんだけど、それも一体なんなんだと。彼らは不運なのか?そう認めてもいいし、同時に決してそうじゃない(呪いを信じ切ってる弟、信じてない妹、そしておそらくどちらでもない兄)。
もちろん、今作は言葉だけに頼り切ることはないわけで、目配せだけで通じ合ったり、望むものを手に入れた人物の喜びにあふれた表情・顔が繰り返し現れたりするのが、「映画の域」ってことかと思います。前述のとおり、そんなことは当然!かもしれませんが、その当然さには値千金の価値あるのが現代です。


まず序盤で、チャニングが現場から外に出てくるところで急にグッと引きの画になり、サーキットの全体と小さい人物の姿を見せるのにやられてしまった。『マジック・マイク』の好きなカット(海沿いのデッキでの引きの画)を思い出した。そして、物同士の関係のあの独特な距離感(のように見せる描写、演出)が自分にとってのソダーバーグだなーと。あとセバスタとかキャサリン・ウォーターストンの演じてるキャラクターの出し方の程度というか具合も。さらに、(ソダバじゃないけど)大好きな『マネーボール』のあの"歌"のシーンと同じ描写が来て感動しまくった。つまり、ソダーバーグの、「成功したのに何か寂しい」やつ、だった。


そして、犯罪の手練手管を見せまくり、アメリカから金を掻っ払い、FBIは撤退する。これこそ反米映画ですよ。ただ反米には常に親米が潜む。反米であることを許すアメリカを愛してもいる(愛してるからこそ歯向かう)。だから最後のバーにあの人物が現れるわけで(愛するアメリカからは逃れられない)。


……つまりこれら「成功」と「反米」も、本作では、2つの相反する意味を持つ言葉である、ってことか。