フレデリック・ワイズマン『ボストン市庁舎』

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たとえば"respect"、それから"immigrant"、そして"community"。
英語を使えない人間として、この約4時間半の映画を見ていくと、次第に特定の単語群が自分の中に残っていくのを感じる(おそらく多用されているということなんだろうけど)。これらの言葉、その扱われ方は、ある種のアメリカ的精神性を提示しているだろう。
ただ、語る人々の姿からも伝わる、そこに込められた高い熱量によって、矛盾するようだけど、完全に言葉だけでは、その精神性を表現できないんじゃないかと、ほとんど直感的に理解してしまった。だからこそ、完全に日本語に翻訳しきれない何か、が残っていると感じたりもする。日本語にこの熱量はそもそもないんじゃないか、と。
それを考えるために、"home"と"job"という2つの、語り口や切り口を変えて、これもまた本作中に繰り返し登場する言葉に関しての、言葉の存在しないいくつかのシーンについて、ここでは触れたい。
それは、前者で言えば、愚直な編集で、定期的に必ず挿入される、青空を切り取り光と影を切り替えるボストンの街並みと建築物である。
これらは前述の精神性が宿るものとして現れており、それは、歴史がある、建築史的に価値があるからということではないので、だからこそ、新しく作り出されるものや、今人々がまさに住んでいるもの、も同様であるべきだという価値観があることを示している。
そして、後者ならば、労働において、無言で体を動かし続ける人々の姿。日本なら明らかに粗大ゴミのサイズのものを延々収集車に投げ込む。接着剤を塗った車道へ赤い樹脂?を撒く動きの規則正しさ。運動、手の営為としての仕事。
この作品が、指輪、食事、書類が人から人に手渡される、「手渡し」の映画であることも、忘れたくないと思う。
なにが言いたいのか?つまり、この映画における、対話、会話、言葉だけに注目することに違和感を覚えている、ということ。
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本作中で回答する側として登場する人々はいずれも真摯に対応をしている、と感じるがしかし、対話、会話、言葉のやりとりだけで、事態を進行していく、改善していくことには、説得的な、論拠を出して相手を説き伏せるような要素を含まざるをえない。
駐車違反時の事情を説明し、その内容で違反を軽減するというシステム(日本にも存在するのか!?寡聞にして知らない…)が描かれるシーンは、この映画で、印象に強く残る、個人的にとても好きなシーンのひとつだ。でもそこにすら、何か、根本的な問題が潜んでいるのでは、と思ってしまう。そしてそのひっかかりを退けるような、何かが変なのに変だという感じをつかませないような、ある種一元的な、シンプルで、パターン化された映画の作り。その映画の(強い言い方をあえて選択するけど)詐術によって隠されているのは、もしかすると、すでに現代において無効化しつつある西欧近代的な価値観なんじゃないか。これはスパイク・リーアメリカン・ユートピア』にも通ずる話だ。


そして例えば、この映画を見た人間の誰もが忘れられないマーティン・ウォルシュ市長の、登場のさせ方について、あるシーンの最初から現れるパターンと、シーンの途中から現れるパターンがあり、後者を、映画である以上当たり前ではあるが、特定の場面において恣意的に選択することで、観客に与えるインパクトを意図的に強めている(まるで『ダークナイト』の取調室のシーンにおけるバットマンのように、まんをじして現れる市長!)ことや、終盤に「星条旗よ永遠なれ」の高揚感あふれる歌唱シーンを配置したことを、一概に称賛してよいのか、という気にもさせられる。無論これこそ映画的な素晴らしさなわけだけど。
それにしても、「星条旗よ永遠なれ」の歌詞の、なんと好戦的(としか言いようがなくないか!?)なことか。今作の、退役軍人たちの集会のシーンで語られる言葉の中に、自分からしたらゾッとするような要素が含まれていることも思い出したりする。起こった過去、それによって引き起こされる現在、を肯定しなければならない、という観念……。
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なんだかまるで冷や水をかけるみたいな論旨展開になってしまったが、仮に前述のようなことがあったとしても、この映画で描かれ続ける、なんとか保とうと皆が懸命に努力している、言葉への前向きさは、肯定すべきだと思う。英語でなんと言っていたかは聞き取れなかったけど、ボストン市内の住宅に関する、「立ち退き」をめぐる人々のやりとりには舌を巻いた。いかに立ち退かせるか、ではなく、いかに立ち退きをさせないか、立ち退かされる人たちを作らないかという発想の、一瞬理解しにくいと思えるほどの、鮮やかさ。
それに何より、この映画で選ばれた場面は、決して明確な答え、解決が提示されるばかりではない、というのも重要だろう。説明し尽くすこと、カードを掲げ主張すること、同じ問いの繰り返しになろうとも対話をやめないこと、それらは全て、何かの終わりではなくて、目的に行き着くための過程、「途中」である、ということ。
ところで、この長尺の映画を見に来ることができない、しかし本作で扱われているモチーフに親和性が高い、本作のような映画を必要としている人々に対して、すでに観客となった我々がどうすればよいのかも、この映画の中では描かれている。観客の誰もが印象深いと感じるはずの、大麻ショップ建設に関わる集会のシーンで、出席者の一人の女性が語る、集会に来られなかった他の住民のために、集会の内容を、主催者の代わりに説明する、といったことを、観客も行えばよい。
(しかし本来であれば、誰もが集会に出席し、誰もが映画を見に来ることができる社会となることが、望ましいわけだけど…)
そして、説明の重要性を描く作品でありながら、ナレーションやらテキストやらの、映画としての説明は一切なしに登場する、ボストンの街角に佇み、街路を歩く人々の姿は、おそらく"home"からも"job"からも追いやられている住民の存在を示唆している。彼らの問題もまだ未解決のままなのだ。

國分功一郎『はじめてのスピノザ』を読んでいたので、またしても、ちょうどたまたま読んでいる本の影響を受けて本作を理解しようとすることになってしまった。