劇団ひとり『浅草キッド』


風間杜夫が出演するシーンにカンディンスキーがあるのは一体誰のアイデアなんだろうか。それとも史実の通り?なんだろうか。もしかしたら、「北野武監督」の発案かもしれない。いかにも言いそうじゃないですか。…単なる妄想ですけど。
まぁ、それは置いておくとして、まず原作未読なので的外れかもしれないことは言い訳しておきたいけど、とりあえず、分裂する「たけし」のエンターテイメント賛歌であり哀歌である、という意味において、劇団ひとり監督の(『HITORIS'』ではなく)『TAKESHIS'』である、とはまず記しておきたい。「おもしれえ死に方して笑わしてやるよ」というセリフの、ゾッとする感じ……。
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なぜタップにこだわり続けるのか。もちろん師匠に教わったことだから、という理由だけで十分なんだけど(そしてこれは反PC的解釈だが、チック的行為の延長線上としてのタップ、というのもあるだろうけど)、さらにこの映画は、タップとは、待ち時間、停滞する時間、そしてそういったことを行う場所そのもの示している、と看破していて、ハッとさせられた。
エレベーターが目的の階に着くまでの間、または、出番前の舞台袖で、観客がいるわけでもなく、ひとりで、ステップを踏む。
そして、それは、誰も見ていないに決まっていて、でも、誰かに見てほしい、だから、誰かが見ててくれるはずだ、という、何か、パフォーマンスとか、または修行や鍛錬とか、そういったものとは別種の行為(祈り?)のように立ち現れてくる。自分だけのものではない、矛盾するようだけど、無時間的な時間の現れ、というか……。幾つか登場する鏡のモチーフもここに関わりがあるような気もする。誰も見ていない、自分しか見ていない、でも、そう決めつけられない、踏みとどまらなければならない何かがある、というような。
そして、言わずもがななわけだけど、ビートたけしという人物にとっても、浅草で過ごした時は、ある種の待ち時間であった、というわけだ。出番が来て、表に出たら、もう戻ることのできない、不可逆の時間。
終盤には、まるで走馬灯のようなシーンも存在する。そこで描かれるのは、どの時間にも属さない浅草だ。
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前作『青天の霹靂』同様、ラブホテルのベッドとフランス座の舞台が、回転という運動によって結びつく、というような、ひとつの運動が異なる時間と場所を繋ぐシーンがいくつかあるのは作家性なんだろうとは思うし、さらに、ワンシーン丸々、ともかく長くカメラをまわすことに意義がある、といった類のものとは異なる、メイキングで大泉洋さんが、背中からタップを踏んでるのを撮るなら吹き替えでもいい、と冗談を言っていたが、もちろんそんなことはなくて、歌やダンスの技術、動きをきっちり見せるための、だから俳優もきっちりやらなければならない、ワンカットが炸裂しまくっている。
また、人物の表情が変わっていく、「いい顔」になるまでを、きちっとひとつのカットとしてとらえているシーンも存在する。これも逆に言えば、俳優たちは線的な、一連の流れで自分の表情、感情を変化させていかなければならないわけだけど、しかしそれは当たり前のこととしてこの作品では求められているようだ。
そして、投げた缶を受け取る、お茶を注いで渡す、といった日常の動きの、カットの割らなさよ。この監督はとにかくやらせるのだ。
それが、監督自身が、舞台の上(カメラの前)ならなんでもやる(やり続ける)「芸人」だから、そしてそんな芸人という存在を愛しているから、という理由であるとするのはいささか無理矢理かもしれないが。ただ、観客が1人しかいない、その1人も帰ってしまう、という恐怖のシーンには、芸人特有のパラノイアックさがあったとは思う。
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渥美清萩本欽一、という名前を出すことで、浅草芸人の系譜を提示し、そしてそこにビートたけしを連ねなければならない、という姿勢を感じた、ということも、忘れないようにしたい。