マイケル・ベイ『アンビュランス』

映画にまつわる言葉やイメージは完全に統合されきらない。
とはいえ、スクリーンに向かい合う観客の中で、どうにかまとまろうともがき、そして我々も統合しようと試みるわけだけど、そこでなされるのは、仮設であったり、錯覚であったりするしかない。急拵えの強盗団のような、あらかじめ失敗が約束されたような集まり。
だからこういう映画は、なんとかして語ろうとするそばから離れてしまう、手をすり抜けてしまう。ともかく映画は逃げ続ける。Ambulanceのように。
私がなんとか必死にしがみついたのは、まず看板だ。冒頭の、《Mexican food》《Tacos》《Pastrami》のネオンサイン。そして登場人物たちが口にする、寡聞にして知らない料理名。頬張られるカリフォルニアロール
そしてもう一つ冒頭で目にするのは、俯瞰でとらえられる高速道路と無数の車たち。
と、これだけで頭によぎるのは三浦哲哉『LAフード・ダイアリー』で、この映画がこの名著を原作としてるのではという妄想が広がってしまう。
ともかく、あの本を読んでいれば、この映画が何をしたいかがわかるわけだ。で、実際に、何ができたのかは、別の話。
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『ヒート』、『スピード』(我々はヤン・デ・ボンと向き合わなくてはならない)と言ったタイトルが思い浮かぶが、その前に、そもそも劇中で繰り返される、「止まらない」(止まれない)というフレーズからして、やはり『アンストッパブル』だろうと思うわけです。車の中と外という移動し続ける2つの空間の相互に流れる時間の切断と同期(皆でゆっくりと進む車!)。無駄に低空で飛ぶヘリコプターには『サブウェイ123 激突』を思い出したりもする。そうなると、Ambulanceはやはり告解室になりうる(関係ないが本作に「も」、「サイエントロジー」というフレーズが出てくる。関係ないけど)。
そして、この映画でたがが外れたように使われまくるドローンの、撮影対象の周囲を駆け巡り、ぶつかりに行くようなカメラワークのことを考えて、この映画では、カメラもまた、車やヘリコプターと同じように移動する乗り物、vehicleとして「登場」してるんだと気づいた。
ところで、成り行きで協力したにも関わらずこれ幸いと"パピ"の警察への憎しみをしっかりと込めたと思わしきド派手なトンデモマシン的ローライダーによるmassacreのシーンを、痛快と言ってしまっていいんだろうか。
もちろん警察側の人々の描写も素晴らしい。その辺から集められたような身なりの人々がタクティカルベストだけをつけてバチバチに銃を撃ちまくる。そこに制服組、スナイパーたち、いいキャラすぎる分析官、そして犬が入り乱れ追跡を繰り広げる、まさに珍道中。そんな皆に死んでほしいと観客として思ったわけではない。
というか、多分、誰も、誰かに死ねと思って殺す、なんてことはないんだと言い切りたい。バサッと何かが断ち切られるように死ぬ。しょうがなく引き金を引く。引かざるをえない。
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横たわる人間の、縦になった眼のアップ、なんて画がマイケル・ベイ作品で見れるなんて、と虚をつかれた。