《Did you realize/That you were a champion in their eyes》(川村元気『8番出口』)


やばすぎるエンドロール!どうやってスポンサーの許可取ったのか!?(色彩の統一感含めてザ・佐藤雅彦研究室のセンス!)何を心配してるんだって話ですけど。そして、これまで一切見たことないので、過去の川村元気監督作品がどうなってるのか俄然気になってしまった。

まず、映画館で見られることを意図したかなり作為的な演出がされてることに驚く。映画なので当たり前、とはいえ。
たとえば地下通路の上下左右の隅がちょうどスクリーンの四方の隅にあたるような構図を作って、まるでスクリーンが入り口となって、その奥へ通路が続いているように見せたり。
真っ暗なシーンで携帯のライトや画面だけが灯ると、映画館のプロジェクターからまるでサーチライトみたいな光が出ているように見えるのも狙ってたのか?まさかね……。
登場人物が咳き込む音を、かなり偏った音の振り方してるのも気になった。これも、映画館のスピーカーを最大限活用してる。過剰に思えるほど後方から聞こえるようにしてるシーンがあった。

さらに、『8番出口』というゲーム、に含まれて、仕込まれていたモチーフやテーマを裏表裏表、と何度も反転させるみたいに真剣に考えてると思われた(これもめちゃくちゃ当たり前のこと書いてるね)。
でないとあんなに電車ネタを入れ込むことはできないだろう。電車通勤してる社会人、サラリー"マン"が作った映画という感じ(東宝様正社員の川村監督と違い、本作のニノは非正規雇用だし、多分クビになるけど)。

そして、特に考え抜かれてると感じたのは、ゲームを映画にする際に、作品の中で起こっているのは、ループでなく停滞である、としたことだ。

なぜそう思ったかというと……わたしは今年で39歳、ニノは今年で42歳、川村監督は今年で47歳、つーまりひとーつうーえの先輩ちょんってすなよ、……ではなくて、いや、あながちではないこともなく、40代の、様々なことへの"決断"を先送りし続ける男(たち)(マンではなくmen、まさしく(?)川村監督は好きであろう、そしてわたしはそんな好きじゃない『MEN 同じ顔の男たち』)の悩みにこの映画は支配されていているからだ。

あるシーンで、その時点から過去にあたるシーンと全く同じシチュエーションになるのも、一連の出来事が無時間的なループであったから、ではなくて、その場にとどまって、ひたすら反復し、少しづつ変化はしていくが、なかなか結論に辿りつかないようにしていたから、と解釈したい。むしろ、わざと異変を見逃していた?とすら言ってしまいたい衝動にかられる。
地下通路は直線ではなく角張ったS字、何度も折れ曲がっていて、つなげると蛇行しているように見えなくもないと思ったり、思わなかったり。
ここら辺は、ちょうど映画を見た時に読んでいた酒井隆史『スネーク・ピープル』や中村拓哉『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』を想起したことによる。

しかしそんなこと(男たちだけでわちゃわちゃ、ワチャゴナと、お前が恋を知った時、俺が愛を知る、みたいなことを言い続けること)、本来女性たちからしたら知らんがなって感じですよね。たとえば、男が決断しようがしまいが女性の身体において(の中で?どう言葉で指し示したら適切なのかすら、わたしにはわかってない……)子どもはできて、育ってしまうわけで。つまり男には悩める余裕があるってことにすぎない。

ニノのキャスティングも、見る前はなんで?と思ったが、年齢もよくわからない彼の顔のクローズアップを見てたらなんだか腑に落ちてきた。このある種の気味の悪さが求められていたんだなと。他のキャストも、すれ違うあの男はもちろん、小松菜奈も含めて、なんだか薄気味悪く見えるように描かれている。人間とは等しく皆気持ち悪いものである、ということ?この気持ち悪さとはなんなのか。劇中では、ある人物たち同士の、束の間ではあるが、お互いを理解し、助けあう様子が描かれるけど……でも結局のところ、ある人間は、他の人間からは、十全に理解し得ない内面を持つ他者にすぎないから?(これもかなり、何回言うんだって感じですがわたしは好きじゃないけど、アレックス・ガーランドっぽいよね。ダニー・ボイルはそんなことないけどね)

つまりそんな、程度は違えど所々、現代においての不正解を踏み抜いている映画だが、それはすなわち、東宝製作であってパーソナル、個人的、作家的であるということであり、映画の内容としても作られ方としても明らかにバランス感覚に欠けていていびつである。わたしは、完全に個人的な理由もあって、この、結局は男たちなりにすぎない真摯なアンバランスさに心掴まれてしまった。

どうしようか迷ってるうちに全てがダメになってしまうのが『シャイニング』とすれば、本作はそこからの盛り返し、引き返し、やり直しを図る『ドクター・スリープ』に近い、と言える、かもしれない。そもそもゲームに対するリメイクなわけだし。

そして、ニノが子どもの七五三盗撮?にブチギれた(この記事にその画像を貼ることもできたが…さすがに自重、当然だけど)のは2024年11月だったが、この時、『8番出口』は普通に考えてたら撮り終えてたはずだ。
わたしは、ロバート・ダウニー・Jr.がアカデミー賞授賞式の壇上でやったことを『オッペンハイマー』のシークエル、もしくはリメイク、または宣伝ではないか?とブログに書いた("American Penis Story"、または"Oppen-is-heimer"(クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』) - 庭仕事)けど、ニノのこれも『8番出口』に対してのそれ(ら)なんじゃないかと、ほとんど脈絡なく思った。RDJの行為のようなある種の直接性はそこまでない、だがしかし、解釈しようによってはあると言えるかもしれない。少なくとも(自分の)「子ども」という"モチーフ"は繋がっている。

『8番出口』の主人公とは違い、ニノは先送りせずに決断したのか、それとも主人公のように「促された」のか、は我々にも、FLASHの記者にもそれこそわかりませんが。

https://youtu.be/inrNezXv6kA?si=YG924YR13Dlqy2UL

ボレロを使って、異世界への入口出口(田口)を現す、というの、われわれはどうしてもこれを思い出してしまうわけですが…そこんとこ川村監督にお聞きしたいです。

2024年のよかった音楽

ベスト云々はやめたし、「よく聴いた」もいいすぎかもしれず、「好きだった」でもいいんだけど、結局こんなタイトルになった。

Benjazzy『UNTITLED』
年末駆け込み!って勝手にこっちが言ってるだけ。スピットして、パーカッシブ(使い方あってる?)なフロウのラップが気合を込めて連打されてる。

Tom Misch『Six Songs』
スムースでリッチな曲展開。

tofubeats『TB DJ REMIXES』
まぁそりゃあいいに決まってる。ベストみたいなもんだから。

土岐麻子『Lonely Ghost』
横綱相撲すぎる。何百回も言ってるけどトオミヨウさんヤバすぎ。

Justin Timberlake『Everything I Thought It Was』
これ、出てすぐ1回は聴いてるはずで、なぜその時になんも思わなかったのかわからないくらい、あとからリピートしまくった。

5lack『Turnover』『report』
ボースティングしてるんだけど、イルすぎて変容してしまってて最高。

adieu『adieu 4』
「ソウルメイト」好き。adieuさんに曲提供してる人たち自体を聴いても良いと思わなくても、adieuさんが歌うとよく聴こえるよ。

藤井風『Fujii Kaze Stadium Live “Feelin' Good”』
一切欠点なしのかっこよさ。これを先に聴き込み、その後にNetflixでライブ映像を見てさらにしびれた

Tuxedo『Tuxedo Ⅳ』
鉄板。

ISSUGI & GRADIS NICE『Day’N’Nite 2』
あまりもクールなシティ派(このワードださっ)ヒップホップ、ラップ。これを聴くわたしはタメ口で喋れず、敬語になっちゃう。わたしがいつも言ってる、かっこよすぎて笑える、ということもなく、むしろいい意味で笑えない。

Victoria Monét『JAGUAR II : Deluxe』
デラックスついたら良くなった、とか言っていいのかわからんが、このアルバムはそう。

MICHELLE『Songs About You Specifically』
楽しいソウルミュージック。「Akira」が好き。

くわばらみほ『くわばらみほのアーカイブ
ツイッターでも言ったけど、まさかここでECDを思わせるようなアルバムを聴くことができるとは思ってなかった。じゃあこれもヒップホップじゃん。これをヒップホップと指し示すことがヒップホップという営為ですよね(は?)。

DIALOGUE+『DIALOGUE+3』
初めて聴いたけどかなり田淵智也すぎた。

Forest Claudette『Jupiter & Stone Between』
こういうのが好きなんですよねえ、というわかりやすさ。Frank Oceanみたいといえばみたいなんですけども。

OGRE YOU ASSHOLE『自然とコンピューター』
郡司ペギオ幸夫に言及したインタビュー読んで俄然さらによく感じた。そんなバンドいねーし。歌詞もやばけりゃ演奏もやばい。

Official髭男dism『Rejoice』
よく聴いた曲が全部入ってるアルバムだから当たり前に良い。

AKURYO『New Family』
こういうアルバムが出る日本のヒップホップの豊かさを愛したいっすねえ。

Channel Tres『Head Rush』
2024年の1枚を挙げるならこれかも。シャッフルで聴いて、えっ何これかっこいい!と思うと大体このアルバムだった。逆にいうと聴いても全然頭に残ってないってことかもしれないけど。

RIIZE『RIIZING - The 1st Mini Album』
やっぱりこういうのがいいっすよねえ。こういうのを日本のアイドルもやってほしいけど、日本のアイドルは逆にこれじゃない方のK-POPやってるよなあ。

WayV『Give Me That - The 5th Mini Album』
やっぱりこういうのがいいっすよねえ(繰り返し)。

三宅健『THE iDOL』
何の中で、とかは言わないが(言ってもいいけど)唯一いいなと思ったアルバム。肩の力が抜けつつも、キメるところはしっかりキメてくれてる。

RM『Right Place, Wrong Person』
BTSのみなさんのソロは今まで聴いてきていたが、どうもしっくりこなかった。ですがこれはさすがに有無を言わせない完成度。最先端すぎ、おしゃれすぎ。

Hyelyn Joo『COOL』
曲がかわいかった。こんなんももう好きとしか言いようがない。

柴田聡子『Your Favorite Things』
柴田さん一応今まで聴いてはいたけど、これが一番いい、とかいうのもまた、どうかと思うけど。一番R&Bでソウルだから、ってだけか。

MAX『LOVE IN STEREO』
わたしにとってのド直球、ポップもポップ。

Matt Martians『Matt's Missing』
良い密室系(?)ファンク。

シングルは以下。今年はともかくつんく♂さんワークスにやられまくった、というか、それはいつもか…てか自分がハロを全然チェックできてないから、その分余計に反応してるかもしれん。と言いつつもうつんく♂さんは娘。しかやってないっぽいけど。CUBERSラストシングルがバズらない?世の中なんて嫌だね。Da-iCEのアレも相当よかったけど、わたしはこっち。
あとSUSURUさんの曲がかなり良くてビビった。これは世代の問題かもしれませんが。
そしてスチャ、というかやっぱP氏は最高。

ZICO,JENNIE「SPOT!」

米津玄師「さよーならまたいつか!」

ナナホシ(CV:若山詩音)「ツバサ」

TOMOO「あわいに」「Present」

CUBERS「スキャンダラスKISS~final act~」

甲田まひる「らぶじゅてーむ」

きただにひろし「あーーっす!」

King & Prince「mooove!!」

スチャダラパー & STUTS「Pointless 5 (feat. PUNPEE)」

岸本ゆめの「ユーアーアイ」「BLUEMOON BLUES」

CHEMISTRY「Play The Game」

長谷川白紙 & KID FRESINO「行つてしまつた (Gone) 」

テレビ大陸音頭「俺に真実を教えてくれ!!」

Amber Mark「Lovely Day」

Jimin「Smeraldo Garden Marching Band (feat. Loco) 」

butaji, Flower.far & MET「True Colors」

清竜人25「Will you marry me?」

古くさい街角のスケ番ズ「バッキャロー!LOVE」

スカート「地下鉄の揺れるリズムで feat. 村上基(在日ファンク)」

Night Tempo「Lil Bit (feat. 土岐麻子)」

ギャルル「めちゃヤバBoom Boom」

Official髭男dism「Same Blue」

SUSURU TV.「ラーメン・ソング」

The Crane「DISEASE」

Travis Japan「My Dreamy Hollywood」

竹内朱莉「愛だろ、やっぱ!」

おもしろかった本2024年

下記からさらに選ぶなら、『ケアの倫理』『バトラー入門』『私はなぜ自分の本を一冊も書かなかったのか』『翻訳する女たち』かな。とこうして並べると何か、共通点?だかなんだかが見えてくる気もする。言語化できそうでできないが。そして読んだ本について思い出して、考えて、文章を書くことで、いまさらだけど、色々と考えが繁茂していく感じがする。

岡野八代『ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想』
ケアについて本を何冊か読んできたが、その中で最も刺激的だったかも。読み終えた今でも、内容が自分の中でまとまりきらない感じ。

現代思想 2024年3月臨時増刊号 総特集=立岩真也
ますます『私的所有論』の重要性、読まねばならないという気持ちを新たにする。とはいえ『生の技法』も途中で放り出してしまっているわけだけど。でも読むことくらいはするべきだし、したほうがいい。あとは他にも立岩先生の本を買って読んでないものもあるので読まないとな。
そして『ケアの倫理』とのつながり。『ケアの倫理』では依存、立岩先生は能力と他者、というそれぞれの論理で、個人・自由意志が解体されている。

大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』
《単純明快なことについて、生きいきした想像力を喚起するような言葉で書こうとしても、書くべき現実がそれを許さないということが、あらゆることどもについてあることに、すぐさま気がつかないわけにゆかなかった》(大江健三郎「無垢の歌、経験の歌」[『新しい人よ眼ざめよ』]p24)
という箇所のすぐ後に《憲法について語ることを、主体の中心に置きもする。それについて、当の憲法下の現実そのものが、簡潔、正確かつ喚起的な言葉で書くことを不可能たらしめている。》と、この箇所を「言い換え」ている。ここを読んだ時の、読者としてのわたしのなかに生まれるひらめきような感覚。前述の箇所が、憲法のことを最初から言っていたんだ、という気づき。

坂口恭平『建設現場』
どこで、誰が、何!?みたいな小説。というかどこで、誰が、何!?と思い続けることができるテキストこそが小説なんだと言いたくなる。


ミシェル・レリス『ゲームの規則Ⅰ 抹消』
結局1巻目がいちばんおもしろかった。言語と記憶、その濃密さ。

ロラン・バルト 喪の日記』
元に戻らないこと、悲しさ、記憶。特別な存在について特別なやり方で、その人にしかできないやり方で語ること。だがそれを、他の人も、それぞれのやり方でまたやれば良い。

フェリックス・ガタリカフカ夢分析
ガタリカフカを指して記す《根源的な未完成》《恒常的な不安定》(p23)というフレーズ、ベンヤミンが記した《カフカの書いたものを取り違える》《自然主義的解釈》、《超自然的解釈》、《精神分析的読解》、《神学的読解》(p25)という方法群、を読むだけでも、いかにカフカから「決定版」という言葉が縁遠いかがわかる。
おもしろすぎ、なんだけど例によってこれはカフカがおもしろいだけの可能性。でもガタリがちゃんと手紙や日記から拾い集めた夢を断片にして、さまざまな要素を見出していくテクネがおもしろいんだとも言い切りたい。

西川アサキ『魂のレイヤー―社会システムから心身問題へ』
これ読めてんのか自分でもよくわからない。しかし本を読めてるとはなにか?
小説が入ったり、なんだかとっ散らかった感じもおもしろかった。こういう、寄せ集めなんだけど強度があるような本を作りたい(?)。

保坂和志トリビュート・ブック』
ゴダールについて書いてあるところがおもしろかったです。

高島都『あぶない刑事インタビューズ「核心」』
語られる撮影時のエピソード、そのディテールがおもしろすぎる。虚構であるテレビドラマ、映画作りの中で、本当に、現実に「やってしまう」こと、「起こってしまう」こと。

藤高和輝『バトラー入門』
脱線、横道に入り、目的地まで一直線ではまるでない。『ジェンダー・トラブル』読めるかなあ。

白石嘉治『不純なる教養』
組織や集団ではない、集まりについて。やっぱり白石先生は最高。

大江健三郎『さようなら、私の本よ!』
設計され、構築されていながら野放図さ、投げやりさも感じる。大江健三郎後期の作品はみんなそうかも。

『呑むか撮るか 平山秀幸映画屋街道』
おもしれーけど、平山監督の愚痴を延々聞かされてるような気分になってくる。ぼやきながらも映画はできてしまい、公開されてしまうのだった。

大澤真幸『経済の起源』
真幸には問題ありだし、これ読むならデヴィッド・グレーバー『負債論』読んだらいいじゃん、とか言いたくもなるが、刺激的な論旨であることは間違いないので……。

金井美恵子『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』
単行本で買って読まず放置して、文庫が出て買って読み、しかし読みながら、もしかしてもう読んでいたのかも、と思いつつしかし、金井美恵子の小説は常に、いつかどこかで読んだことあるような、なにかに似ているような気がし続けるものなので、一体どちらなのか、読んだことがあったのかなかったのかわからず、さらに読み終えたところで、読んだと言い切る自信もないのだった。

『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』
『経済の起源』から続けて読んだので、贈与と負債の話としてつながっており、さらにそこから脱却するための「漏れ」としての利他について書かれていた。最後にとりあげられてる未来食堂がおもしろすぎたので行ってみたい。

マルセル・ベナブー『私はなぜ自分の本を一冊も書かなかったのか』
読んでいる間想起し続けたのはもちろんもう一人のマルセル、そしてやっぱりレリス。小説を書こうとして書けず、書けないと言い続けることが書かれることでそれが小説になってしまう。言語によって作られるもののなかで、小説だけが、後退しながら前進したり、消え去りながら現れたりすることができる、んじゃないだろうか。

大橋由香子『翻訳する女たち 中村妙子・深町眞理子小尾芙佐・松岡享子 』
ほぼ同世代と言える女性たちが語るエピソード、なんとスリリングで、喜びを与えてくれることか。過去、歴史、社会、政治、国家、言語、性、それら全てとの関わり。

最後にこれを挙げて終わります。ひたすら泣かされ続けました。祝完結。

藤本タツキの『ルックバック』として(押山清高『ルックバック』)


ストーリーについては、もう半ばミームにもなってるからあまり使いたくないが、わたしは努力したことない人なので、よかったとか響くとか辛いとか、裏/真/闇『まんが道』だとか、「シュレーディンガーの猫」とか、accident(予期せぬもの、できぬもの)についての物語だとか、そういう事は特に言えません。原作があることだし、原作から変わってないわけだから、映画になってあえて何か言うのもさしひかえさせていただきます。

とかいいつつ、映画特有のではなく、結局原作からの話をし始めるが、この物語においては、次々現れる無数の矩形が組み合わさって、ないし、入れ子状になっている、と言える。学級新聞、漫画のコマ、机、スケッチブック、扉、窓、少年ジャンプ、スクリーン、モニター、ペンタブ、キャンバス、テレビ、スマホ……(と言いつつ、こうして列挙すると、そもそも、現在の我々の世界自体が矩形に満ちている、満ちすぎているということなのかもしれない)。

で、普通に考えれば、という言い方が皮肉っぽくなってたら申し訳ないので言い換えると、わたしみたいな凡人であれば、映画という、漫画とは異なり、それ自体で戻ることができない、リニアな進み方しかできない形式で、こうして、あからさまに提示され続ける、され尽くされる形を、とっかかりにする、観客の中にイメージを蓄積する装置として活用する、ということをしてしまうだろう。映像的に、矩形と矩形を繋げ、重ね合わせたりする、など。ただこの映画ではそれは為されていない、ととりあえずは言えるだろう。

行われているのは、いささかだじゃれめいてはいるが、タイトル通りの、振り返ること(は、もしかして目を逸らすことなのか?と思ったり)、後ろを見ること、背中を見ること/見せることの主題系を提示すること、それから、机に向かう背中や風景のカットを同ポジで繋げ、季節の変化、時間の流れを表現すること。
ただこれらって、原作ですでにまんまやってることじゃないか?読み返してないから曖昧ですけど。だったら、もっかいやらなくてもいいんじゃないか、と思う。物語に従属しない、別の視点、別種の解釈、外部、を持ち込むことができるのが映画なので(とか言いながら、矩形のモチーフを原作でどう扱ってたか、よく覚えてない…多分この映画と同程度だったと思う)。

少年ジャンプを開くと、挟まっていた4コマ漫画が落ちる、なんてまさに象徴的なシーンだけど、今作は、矩形の牢獄にとらえられた人々の話、なんじゃないか。行っても行っても、矩形から逃れられない。逃れようと思ってもまた行き着いてしまう、もしくは戻ってしまう。というか、その向かっている先も結局矩形だ。矩形の中へ延々と入り込み続けているだけ。
そして、映画版『ルックバック』もまた、漫画版『ルックバック』という矩形に魅入られ、そこから抜け出せなかった、のか。我々観客が、劇場のスクリーンを見つめているように。

そして、その牢獄を、文字通り破るのが、あの、下半分が斜めに切りとられ、形が壊れた、漫画の1コマだろう。対称性の破れ?違いますね。
ただそれは、コマの小ささ、隙間を通る薄さに見合った牢破りでしかない。もし、扉「も」蹴りで破られていたならわからないが。

そしてもう一つ、これも、「響かない」人として安直に考えることなんですが、終盤の、主人不在の京本の部屋に行く一連のシーンで藤野が目にするものについて。

ーーしかしどうでもいいことなんだけど、京本は大学に通うために生家を出たのだろうか?あの部屋には、彼女が大学で学んでいることに関連しているようなもの、絵画関係のもの、キャンバスとかがなかった。まぁ狭い部屋だからそういうものも置けなそうだが。そして、分岐した別の未来=現在で、京本は大学からあの家に帰ってるからやっぱり生家を出てないのか?それともあれは別の未来=現在だからか?ーー

わたしみたいな凡人なら、かつて2人が共に過ごした時間を表すもの、または、藤野と離れている時間で、京本が培っていて、その部屋で藤野が初めて目にするもの、とかを登場させます。それらもまた、矩形の群れであるはず。
そうして、2人の距離や、逆に離れていても相通じていたこと、時間の流れ、そしてまた結局、矩形から逃れなかったというある種の諦念みたいなものがわかるとか、まぁ、そうします。

でも実際は、全部藤野自身の絵なんですよね。
自分の作品が連載されている雑誌、自分がかつて書いた4コマ、やっと部屋に入って何を見るかって言うと、自分の漫画の単行本。しかもそれを読んで涙する。
自分の漫画読んで泣くのもまぁいい。11巻まで出てて、自分はその続きをかけてない、京本は死んだから読めない、読まずに死んじゃったという涙でもある。
ただ、そうして最後に見るのが、またしても藤野が、かつて書いた文字(自分の名前!)っていう。……すごいな、と。ここまでくるともう完全に意図的だろう。

つまりここで藤野は、徹頭徹尾、自分の描いた/書いたものを見ている。藤野にとって京本は文字通り「背景」だ。しかも、京本の死の責任も自分にあり、自分なら京本を救えた、と思っている。いや京本の意志は?徹底した自由意志の否定?
もしかしたら、結局他者は他者でしかありえない、つまり他者は死者であり、出会い損ねるしかないから、ということなんだろうか。そもそも藤野が最初、出会う前に描き出す京本は死者(白骨死体)として登場するわけで。京本は藤野にとって「漫画」の登場人物、なのかもしれない。

と、まぁ延々書いたが、これらもまた、原作の話だ。原作の枠組みの中にふうじこめられた映画なのか、それともわたしがふうじこめようとしているのか。藤野、藤本、封じ……。
ある一人の人物の中、ある一つの世界の中に、全てが均一の、その人物の複製が収まっている、マトリョーシカのような作品。それは令和の(ダサっ)セカイ系、なんだろうか。

ワンカットの中、撮影じゃなく作画でのクローズアップや、雨の中歩いて行くシーンのカメラワークやアクション、歪みやぶれを含んだキャラの描線、はまさにアニメーションの喜びに満ちている、ととりあえず言ってみる。
そしてもちろん、主演2人の、いい意味でキャラに寄せてない、リアリティある声の素晴らしさも。
あと、魚眼や、ちょこちょこ使われてる下からのあおりの構図、室内から外へカメラが移動して、キャラクターの声が聞こえなくなる編集は、シンプルというか真っ当というか、オールドスクールだと思った。
……アニメーションを語る言葉の貧弱さ。字余り。

"American Penis Story"、または"Oppen-is-heimer"(クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』)


冒頭のエピグラフ、大抵こういうものって既存の文学作品からの引用が定番かと思うのですが、著者名の記載が無かったんですよね。それってつまり、ノーランが自分で書いた文章ってことなのか?と。
そして、この手の実録物にはほぼ欠かさずある、本編最後に黒バック白文字で、劇中の実在の人物の、映画の時系列のその後を語る文章も、潔いまでに全く無かった。
この、映画の前後の言葉にまつわる状況に象徴されるのは、今作における、他者の言葉の無さ。全てがノーランの言葉であり、その言葉で完結しているような感じ。

そして今作は、ノーランが映画作りについてめちゃくちゃに本気出して考えてみた、その答え合わせみたいな映画だと言える。
どういうことかと言えば、現状において、ノーランの映画作りって、もはや尋常じゃない巨大なプロジェクトと化しており、それって、現実に行われている、膨大な資金と人材が必要で、時間制限があり、人間の生死に関わるような大規模な計画、または戦争それ自体と相似をなしてるじゃん!みたいなことだ。『映画は戦場だ!』(サミュエル・フラー)。もちろんそんなことはとっくに気づいているだろうけど、その気づきの果て、極北にまで行ききってしまったと思えるくらいのあからさまさと多重性(例えば、まるでオープンセットのようでもあるが、完全な虚構ではなく現実に作られたロスアラモス)に満ちた今作は、そういう意味において、ノーランの最高傑作と言いたくなりもする。

そんな作品の中で繰り広げられるのは、白人のパワーエリート男性たちが、ブラインドを下げ遮蔽した秘匿空間で、徹底的に論じ合い、影響を与え合い、探り合い、勘ぐり合い、揚げ足の取り合い、いがみ合い、小馬鹿にし合うだけの……一体、なんなのだろうか。同じ場面が繰り返され、または似通った同じ場面がひたすら続く、終わることのない、会議のような、集会のような、裁判のような、それら全てであって、全てでない、何か。

では、それ(ら)は何なのか。というか、ここまで書いてきたことでわたしは何を示したいのか。

キティが幻視する(と、一先ず言うしかない)、裸でジーン・タトロックと抱き合うロバート、を演じるキリアン・マーフィーの股間、は一応暗くなってはいたが、何かが見えたような気がした。それは、キリアンのキンタマだ(「キリアンのキンタマ」って書きたいだけ)。なにをもったいぶって書いてるんだと自分を戒めつつ、このキンタマが天啓となって、不適切、いや不謹慎な発想が出てくる。

このtwo ballsは、two bombsであるということだ。Little BoyとFat Manというtwo bombs。
じゃあ(one)stickは?となると、トリニティの実験塔、がまさにそれだろう。

つまり、このブログのタイトルに書いたものを略してーー偶然にも、オッペンハイマーが会長になったこともあるAmerican Physical Society (アメリ物理学会)と同じ略になるがーーこの映画は"APS"であるということです。

ある1人の映画作家による強烈で巨大な支配、がなされているがゆえに「最高傑作」である、というその価値観自体も、結局のところ同じ群れの「チーム友達」である男同士の延々と続く鍔迫り合い、よりむしろ、そんなものが存在するのかという話だが、ヘテロ的な兜合わせ、つまりプロメテウス(たち)の、神々の遊び、など、の強い閉鎖性のすべてが……なんというか、「ペニセスト」であるとしか言いようがない……そう思えばなんだか『えの素』みたいな、榎本俊二作品みたいにも思えてくる(?)。

その果てに、誰にも与えず自分(たち)だけが快感を得て、射精し、強い光によって起こる画面の白飛びがごとく、テラーが顔に塗りたくる白い日焼け止めのごとく、静液を撒き散らす。
もちろん、精液が無責任に、連鎖的に生成されることはなく、終わらないのは男たちの勃起と射精だ。地球の表面を覆い尽くし、大量の死を齎すスペルマ。

そして、キティから、もっと怒張させなさいよ!妻じゃない女に挿れてる場合じゃねーだろ!という説教をされても、オッピーはすでに射精してしまっているので、もう硬くならないのだった。みたいなオチ?

ところでアカデミー賞の壇上におけるロバート・ダウニー・Jr.の一連のアクションは、『オッペンハイマー』のシークエル、もしくはリメイクだったのだろうか。または手の込んだ宣伝行為?

おもしろかった本2023年

今年は、読めた月と全然読めなかった月の差が激しかった。
前半は、大した量ではないけど、大江健三郎を集中して読んでいた。当然まだ未読作品は残っている。亡くなったからって読み出してどうすんだという気もするが。
そして1冊何かを選ぶなら、やっぱりバルト『テクストの楽しみ』かな。読んでいる間のワクワク感半端なかった。頭の中でイメージとイメージ、イメージと言葉、言葉と言葉、が結びつき続ける感じ(想像界象徴界のたえまない接続?)。

坂口恭平『けものになること』
坂口さんの小説は初めて読んで、その縦横無尽さに感動。他を読みたいと思いつつなかなか手が出ない。『建設現場』か『家の中で迷子』のどちらかを次は読みたい。

アナ・チン『マツタケ 不確定な時代を生きる術』
昨年末から読み始め年明けに読み終わった。ともかく雑多で、博覧的?な本。

深澤直人『ふつう』
鼻につくくらいまでに研ぎ澄まされている。

大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』
「生け贄男は必要か」という、自分にとっての大江健三郎ベスト短編に出会うことができた。これをベストにするというのもどうかと思うが。

青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀Ⅱ ある映画作家の日記2020‒2022 ―または、いかにして私は酒をやめ、まっとうな余生を貫きつつあるか』
ともかくこの本を読み終えた時の、放心状態というか、何も考えられなくなった時のことを覚えている。

立ち直り直し続ける、というのはえらく婉曲な言い回しだがどうもそのようになる。もしかすると立ち直るということはとうとう訪れず、今後も繰り返し立ち直りをやり直しながら前へ進む、ということのような気がしてならない。(p344)

大江健三郎『水死』
恐るべき強靭さで書き連ねられていくモチーフ。そしてどうやらこのモチーフをずっと抱え続けていたと思われ、常軌を逸してるだろと思った次第。しかしそれが小説家なのかもしれないから別に逸してないのか。

坪内祐三『本日記』
全くの偶然で手にとって、とはいえ本を手に入れることは常に偶然性の営為ではあるけど、ともかく読んでいる間ひたすら共感し続けられた、そのし続けられたことがすこし怖かったくらい。ツボちゃんほどの知識量、貪欲さはわたしにはないけど。それにしても多分、今思えば再読だった気もするが、他の日記だったのかもしれず、記憶は曖昧。

アラン・ロブ=グリエ『弑逆者』『反復』
なぜか今年2冊のロブ=グリエを読むことができた。読んでる最中のおもしろさ、読み終わった後の何を読んでたかわからなさ。

マルセル・プルースト失われた時を求めて5 第三篇 ゲルマントの方へⅠ』『失われた時を求めて6 第三篇 ゲルマントの方へⅡ』『失われた時を求めて7 第四篇 ソドムとゴモラⅠ』
今年も!読み切ることが、当然のようにできなかった。いつ終わるんだ。ただこれまでと違うのは、プルーストの筆致、今作の展開が自分の身に染み込んでいるので、いつでも読み進めを再開できるという自信が備わったということ。今年は何を読んでも、例えばロブ=グリエでも大江でもウルフでも、そして何よりナボコフも、プルーストを想起してしまい、というかこれら全ての作品、作家はプルーストを前提として小説を書いてるんだなと、めちゃくちゃ当然のことに気づいた。はっきり言って、どんな小説よりおもしろい、とわたしには思える。まだ読み終えてないけど。


『世界』2023年8月号
ツイッターで入手困難という知らせを見なかったら買わなかったし読まなかった、と恥ずかしながら書かせていただく。てかこれを毎月買って、読み切ってる人がいるのか?内容厚すぎ深すぎて読んでいてめちゃくちゃ疲れた。

伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』
映画制作の闇、いやもしかしたら光、映画館で放たれる光とは違う別の光についての本。前者と違い後者の光の中では偽物ではなく本物の死がある。

東浩紀『訂正可能性の哲学』
これは別にディスではなく書くが、極限まで構築しきった哲学の理論から、紆余曲折あって、この"言い訳"に満ちた哲学ができあがったのは、なんだか感慨深い。「訂正可能性」にも「哲学」にも両方"言い訳"というルビがふれる。つまり『言い訳の言い訳』?

トーマス・ベルンハルト『消去』
がんばって読み、おもしろかったが、当分ベルンハルトはいいかな…と思いました。疲労感、徒労感、アンチヨーロッパ、アンチ近代社会。小説を書こうと思っても書けない、というのもまた『失われた時を求めて』じゃねえか!

兼本浩祐『普通という異常 健常発達という病』
兼本先生の本は毎度むずい。と言いながらちょこちょこ読ませていただいている。今作はタイトル通りなわけですけど。他者性、ラカン的な話とか。郡司ペギオ幸夫『やってくる』すぎることが書かれてたのですぎるなぁと思ってたら終盤で登場したのでやっぱりって感じ。

ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』
これもまたなぜか今更買って今更読んだ。もはやこれはただのウルフの小説だ。

各人は、状況次第で些末事だったり重要事だったりする他の用事にいつでも応じられるように、言わば気もそぞろになりつつ、やりかけのことを続ける。(p232)

佐々木敦による保坂和志(仮)』
保坂さんの放言がちょこちょこ読めてよかった。というか近年の保坂和志作品に何かを語るなんてとんでもなく難しいと思う。小説を書き始めたあっちゃんは真摯だ。

ロラン・バルト『テクストの楽しみ』
バルトも、毎回読んでおもしろいのだけど次が続かない。まだ読んでないものが山ほどあるが。喪の日記か声のきめ、どちらかを読みたいと思ってる。

『矢野利裕のLOST TAPES』
これにしても、佐々木のあっちゃんのやつにしても、文フリで売り出したものをあとから必死こいて入手しようとしてるから、いい加減文フリ行けよという話かな。矢野さんのECD追悼文を、ネットで何かのたびに読んでいるんだけど、それが今回書籍となったので、それを手元に置いておきたく買った。

片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン ─疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版』
ラカンの本、ラカン自体も解説もそこそこ読んではきたが、よくわかっていないことが大半だったので、今回これを読んでなんとなく理解が進んだ気がした。気がしただけか?
また、精神病との対比でサラッと神経症について説明されておりそれがわかりやすかった。

ほそやゆきの『夏・ユートピアノ』
漫画を読んでないわけじゃないが、連載しているものが多いので、おもしろい本としてとりあげようと思うものとなると、そんなに数がない。そんな中、本作は度肝抜かれるすごさだった。こういうすごさ、洗練、センスの良さは、自分にとっては漫画でしか得られないものだ。

最後にこの本をあげる。来年は読み終わりたい。