2010-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。母国語の中に外国語を作る。メルヴィル、ルーセル。

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。 《人は彫刻のまわりを一巡りする。そして彫刻に属する視覚軸は、その物体を、あるときはその全長において、あるときは驚くべき短縮法において、あるときは分散する二つあるいはいくつもの方向にしたがって、捉えさせる。(……

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。 (こどもの)地図を、父親と母親の、後から来るもの、としない。それは関係だ。起源でなく軌跡であり、転位をあらわす。 《だから、想像界と現実界とは、同じ一つの軌跡の並置可能ないし重ね合わせ可能な二つの部分、絶えず…

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。 《象徴には何の意味もない、説明すべきことも解釈すべきこともなく、寓意の知的な意識とは逆だ。それは回転式の思考であり、(…)始まりも終わりもなく、われわれをどこにも導かず、終止符などは絶対になく、段階すらもない…

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。 G・ガルシア=マルケス『生きて、語り伝える』買った。

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。例によってカントのとこがなかなかおわんないわけだけど。

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。 《それは、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。(…)それは〈私〉を、つまりは自己を触発する〈他者〉としての規定の自発性を、みずからに表象するような受動的な自己…

前田英樹『倫理という力』と佐々木正人 編『包まれるヒト 〈環境〉の存在論』買った。

ジョン・ファヴロー『アイアンマン2』見た。 とにかく、上手い、映画だった。ものの登場のさせ方、見せ方。カットがもたつかない。 例えば、アイアンマンとウォーマシンのけんか。暴れすぎて2人は、下の階に落ちてしまう。そこはガラス張りで、その外のテラ…

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。自己について。私と自己には差異がある。時間の中で絶えず統合しあわねばならない(それがなければばらばら?) CCCD普通にとりこめた…なのでECD『MASTER』聴く。クボタタケシのがやっぱかっこいいな。ACIDMANもとりこめんの…

ドゥルーズ『批評と臨床』読む。自分はやはりベタな物語が大好きなんだと思う。 『アウトレイジ』について。多用される「形だけ」という言葉。形、が整ってしまえばあとはいかようにも…。鈴木慶一のサントラかっこええ。 もう夏だ。

北野武『アウトレイジ』見た。 まず冒頭の車の一群と親分待ちのヤクザたち、の画がピントがあっていなくて、でも完全にというわけではなくスクリーンの中心に人物が来る度に合いそうで、合わなそう、といった風になり、それはそこにいるのが杉本哲太であろう…

朝方の松濤。ゲーテッド・コミュニティのよう。

ドゥボール進まないのでドゥルーズ『批評と臨床』読み始める。さくさくいけるなあ。母国語の中の(創り出された)外(国語)としての文学。支配的でない、運動・健康・錯乱。にしてもルイス・ウルフソンやばすぎだろ。

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』読む。革命が起こると信じて疑わない、「主張は馬鹿げたものであり」続けるアナキスト。

井筒和幸『ヒーローショー』見た。 傑作。 ジャルジャル福徳演じるユウキが、消費者金融から飛び出して、懺悔を叫びながら、今自分のいる場所から逃げようと走り出し、ビルとビルの間の路地に駆け込むが、そこは行き止まりで、出て行こうにも出ていけず、ド…

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』読む。 《スペクタクルがはっきりと示す非現実的な統一性は、資本主義的生産様式の現実的統一性の基にある階級分割を覆い隠すものである。生産者に世界の建設に参加するよう強いるものは、彼らをそこから隔てるもので…

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』読む/全然関係ないけど、文化ってのを求める人間は、自分以外の人や物に自分を(何かを…自分の考え方とか?あんまり特定できる気がしないが)託さずにはいられない人間なんじゃないかと。自分について、自分だけで、…

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』読み始める。現実から分離された人々は、凝視しかできず、その現実も、スペクタクルにとって代わられている。なんというか、納得し続ける本。

『高橋悠治 対談選』読み終えた。 《そういう風に、聴こえなくても一番大事とか、ほとんどやらなくても一番しっかりしていなくてはならないとかいうのって、非常に面白いことなのね。》(p402) 《例えば、五、六人が集まって、違う楽器を持って、違う音楽を…