《映画の冒頭シーンのところで入ってくる人々は「ほんの少しの見逃しですんだ」かもしれないが、すでに着席している側は「大切な大切なファーストシーンの場を乱され」ている》のか?

《映画の冒頭シーンのところで入ってくる人々は「ほんの少しの見逃しですんだ」かもしれないが、すでに着席している側は「大切な大切なファーストシーンの場を乱され」ているのだ。》というツイッターのつぶやきを見て、批判とかではなくあくまでこれをきっかけとして自分で考えてみた。

映画が、その誕生から、《大切な大切なファーストシーンの場》があると考えていた人々のためのメディアであったかと言われれば多分そんなことはなかった。むしろ《冒頭シーンのところで入ってくる》ような人々が主たる対象者であった気がする。
たとえば本当に《大切な大切なファーストシーンの場》があると考えられていたならば、シアターの扉が施錠されてもいい。曲の途中の入場を制限されるクラシックのコンサートのようであってもよかった。だが、原始の映画館(おそらく「館」ですらなかっただろう)から今日に至るまで、おそらくそのようなことは行われていない。
別に上映途中に入ってくることを肯定するわけではないし、自分が入ってこられた側ならイラっとするかもしれない。

…しかしここで自分を「入ってこられた」側と書くことの奇妙さがあるが、それはまた別の問題か。ここにおいて、ある観客は、映画=映画館=自分、と全てを同一化してる。我々は、同じスクリーンを前にして観客同士で共感し連帯することなくむしろいがみあうのか?いやむしろ、同じスクリーンではなく観客それぞれの個別のスクリーンがあるだけかもしれない。脱線した…。

ただ、《映画の冒頭シーンのところで入ってくる》ことを、さも一般論的に、ないし常識的にあり得ない、とするような、ないし、映画は"ハイ・アート"である(もちろんそんなことはない)かのように取り扱う言説に抵抗があるだけだ。前述のツイッターのつぶやきがそうである、とまでは言い切れないけど。
このつぶやきの当人の方はどうやら作り手側の人っぽいので、自分の大切な作品をそんな「消費」の仕方してほしくない、ということかもしれない。1秒も見逃してはならない芸術作品のように「鑑賞」してほしい…みたいな?
ただ、腰を据えて見る、見てほしい、という考えに対して、腰を据える(ことが可能である)ことの特権性、というのもあるな、と思ったりする。そんなもんに特権性とか言いたくないし、誰でも好きな時に腰を据えられる社会になってほしいが。
そして、家の小さなテレビで、NetflixだのAmazonプライムビデオだのディズニープラスだので映画(らしきもの)を見ている自分を肯定したいだけかもしれない。

それはそれとして(なにが「それはそれとして」なのか)、一般的な映画館、などは存在せず、あるのは「個別の映画館たち」だと言ってしまいたくなる。映画にも事情があるように、観客にも事情がある。そして映画は一回性のメディアではない。だからこそ"ハイ"になり得ない。