最近見た映画。

ウィル・グラック『ANNIE/アニー』

元が元だから良いに決まってるし、冒頭の、街の(NYの)雑踏がリズムになりメロディーになり歌になるシーンで全てをうけいれた。つまり、下校のシーンにこの映画の魅力がつまってるということ。レンタサイクル、電車、レストラン、近所のスーパーの花、アパートの可動式の梯子、彼女が街を自分の持ち物のように扱ってるのが伝わる。
なんというか、肯定感が伝わってくる作品だ。最初にアニーが車に乗り込んでグレースと会話するシーンに運転してるナッシュが聞いていて微笑むカットを挿入するのほんとうまい。これだけで彼女が「受け入れられる」のがわかる。
ブルージャスミンのあいつ出てました。ぎらぎらしたやつ。今作中でも「精力剤」あつかい。
字幕で結構英語の台詞落としてるのがわかるくらい情報多い。juiceは2 weeksでmilkは1 weeksとか。…しかしまぁ、今思い出そうとしても忘れてる。マイケル・J・フォックスじゃないか、俺だって投票するよ、彼は聖人だぞ、と、マイケル・J・フォックス連呼するとこ笑った。
ソニーピクチャーズなのでF55で撮影してました。


アイヴァン・ライトマン『ドラフト・デイ』

最初の家のシーンの編集のテンポに躓いてしまって、デジタルなスプリット・スクリーンもまぁ…って感じ。グリーンバックも、そんな使わんでも、と思うくらい多用されてる。デジタルな画、合成のクオリティにあんまこだわりがないんだろうか。
アメフト映画だからってアメフトやれとは言わないけど運動がなさすぎかと。歩き回ってパソコン壊して、じゃ物足りない。最後、パーティー会場まで走ってくるとか…そういうのでもよかったんだけど。まぁ、チャドウィック・ボーズマン出てる時点で『42』のあの身体の動きを思い出してしまうし、もちろん『マネーボール』のブラッド・ピットの手の動きも。なんというか、愛すべき細部が見当たらず…。
ただ全くないというのは言い過ぎで、やっぱりマグカップでコーヒーを飲むという行為に何かあるなと。アリがコーヒー頼まれる2つのシーン、ペンには悪態ついて拒否するが、バーブ(元妻は確かgreen teaを)の頼みは遂行しようとする(それをサニーに止められる)。朝一自分で入れたコーヒーを飲むサニーの姿。
あと多用されるスピーカーフォン(『マネーボール』でもよく出てきたけど)。ボタンを押す仕草や周囲の人間を黙らせて視線でのやりとり。あれだけ揉めてたのにトレード希望選手が一瞬で決まるシーン。もちろん終盤の電話での会話だけのスリリングな駆け引きの描写は見ていて面白かった。
アリが仕事をしながらワッフルを食べチップスの袋を雑に開けて中身をぶちまけてつまむ。交渉決裂し彼女が去った後、ほばそのまま残ったワッフルをかじるペン監督。このシーンにはアメリカ映画の呼吸がある。ところで、袋のポテトチップスといえば、『ウォール・ストリート』のフランク・ランジェラが手持ちでつまむLAY'Sを思い出す。あの使い方はしびれた。
元妻とか、遺灰とか、妊娠と父親になることとか、研修生とか、監督とか、敵チームのGMとか、ブラウンズのQBとか、むろんフランク・ランジェラのオーナー(サングラスのソリッドさ!)とかドラフトで選ばれる若者たちとか、メモ紙とかコーヒーカップとか要素としてはあるのに…。ちょっと消化不良?というかひっかかるくぼみのようなものがもっとほしかった…というか自分が感じられなかったのはアメフトの知識が大概ないからなのか。あ、代理人たちとか、ブラウンズのスタッフたち(スカウトのおっちゃんとか)とか、いくらでも出てきそうなもんだけど。どうもハードルを上げ過ぎてしまったのかもしれん。申し訳ない。GMが大事なドラフトの日に他のことにふりまわされまくる、というの、おもしろいのに、なんかどうももう一押し、という、くやしい気持ちだ。
自分にとって久々のケビン・コスナーの、表情や首のあたりの澱みというか硬化してる感じが気になった…。
ジェニファー・ガーナー、私はクリーブランドの女、アメフトしかない、と語る彼女の高いピンヒールにはこっちの背筋が伸びた。
アレクサで撮ってるとのこと。


ベネット・ミラーフォックスキャッチャー

まず、スピーチから始まる。それも、他人の言葉によるもの。
この、自らの意志ではない語りはその後も何度か現れる。逡巡っぷり、言い淀みが頭に残る、デイヴのインタビューシーン、ヘリコプターの中に執拗に練習されるマークによるジョンの紹介。
そして、肉体の動き。
冒頭の兄弟のトレーニングのシーン、レスリングというスポーツのある種の特異性というか奇妙さに魅せられる。
マークの部屋にある、デラウェア川を渡るワシントンの絵。国の代わりに自分が敬意を示そうと、国家と自らを等価に語るデュポン。彼は愛国者を自称し、選手たちに良きcitizenたれと説き、国民にhopeを取り戻したいと言い母親に嘲笑される。偉人たちの逸話の残る土地に建てられた屋敷、書斎に掲げられた古びた星条旗。無数に掲げられる肖像画。トロフィーや楯。デュポン家の古い写真。
わかるのは、徹底的に自分以外の存在に依って自身を支えようとする行為で、ここに対したいのは、デイヴの家の並べられた家族写真だ。
「お母様」からレスリングはlowだと評されるがではhighなのは何かと言えば馬術であり、それはつまり血統のこと、継承される伝統と富と権力のことだ。たかが一代で(貧しい兄弟が努力によって)ひっくり返せない、(レスリングの試合のように)形勢逆転できない。
大会がデュポン主催なのを垂幕で示し、試合後に対戦者へ誰かが肩を叩くところをそれとなく描き、その後の母子の会話で大会を支援しているところを強調するだけで十分なはずなのに、わざわざお金を渡す行為をしっかり見せている。母親やカメラが来た時だけ指導者ぶり、「観客」がいなくなるとその瞬間に止めてしまう。ボウイの「FAME」の使い方。この、映画の観客と劇中人物に対するデュポンの現す「わかりやすさ」は何なんだろう。
気分が淀むのはデュポンではなくて、マークの、兄の代理の講演後もらったギャラでハンバーガー2セットを車の中でぱくつく姿。部屋に戻って食事しないということのつらさ。あと整理されたコカインのケースにはしびれた。


ジョン・カーニー 『はじまりのうた』

いやー最高だった。大好き。
部屋にいてもわかるニューヨークの街の喧騒(それを全身で受けとめるように朝ベランダに出るダン)が全編にわたって聞こえてきてそれがそのままレコーディングのテーマになる。
客観的な第三者的なものと登場人物のものとに視点が1シーンの中で切り替わるカメラワークがおもしろい。ライブハウスの繰り返しの時もそれが生きてるし(「誰の」話かによってマーク・ラファロの「見え方」が変わる)、グレタとデイブの(ラップトップで再生される)演奏シーンも二人の視点を利用している。
ダンに「男の子みたい」だと評されるグレタの最初のシャツとパンツと小さい肩掛けのバッグ、の姿、自分はすごく魅力的に感じた。歩いている彼女を見て映画に入り込めて受け入れられた。
アイスクリームとかビールの代金とかをきちんと映画内で引き継いでいくのがうまい。出しっぱなしにしないというか。
ラスト、アダム・レヴィーン演じるデイブのパフォーマンスが別の領域に達してしまっている(歌が皆のものになっている)のを感じとって立ち去るグレタ、というストーリー、正にそれしかない、という誠実さがあった(この誠実さが、グレタとダンの関係の描写を生み出してる)。つまり、グレタは最後まで不特定多数の為や売れる為ではなくて特定の誰かの為や自分の為といったはっきりとした対象に向けてしか歌ってない。レコーディングの時、若い誰かをプロデューサーにつけようとしたダンを引き止めた行為。留守電に吹き込んだ歌が目的と違う効果を与えたことに驚く。
野外でのレコーディングの描写の細かさ。マイクの前のカバーとか、ガンマイク(ダンの掲げてる位置を直すスティーヴの動き)とかの機材のリアリティーあった。
良い所を挙げてくときりがない。レコーディングに子供が参加するのぐっとこざるを得ない(その前の飴とお駄賃のやりとりもよい)し警察来て逃げる時の皆の身のこなしもいい。屋上の演奏で文句も言われるけど横にさりげなく聴いている人達もいたり。
モス・デフとシーロー先生出てるからダンはヒップホップで一世風靡したプロデューサーという設定になったんだろうか。
もはやあれも良い、これも良い、とシーンを挙げてくしかない心境に達した。シャワーのシーンで「乱れる?」からのくすって感じの笑いとか、最初誘って「幾つだと思ってるの?」と娘に断られた公園でのアイスクリームを結局グレタ加わって食べられたシーンとか。
ヘイリー・スタインフェルドめっちゃいい。ファッションが変わっていくのもいいし、はにかみながら最終的にギターをかき鳴らす姿もいい(良いしか言ってない)。


リドリー・スコットエクソダス: 神と王』

同席者を部屋から退出させるシーンが3度出てきたり(モーゼとヌン、モーゼと先王、ラムセスと総督)、常にモーゼと神だけで行われる会話(後半それを茶化したような――「今は話してない」――シーンも出てくるが。にしてもこの作品の神にまつわる描写はなんなんだろうか。あの子供の姿をあからさまに示すのも、何か漠然とした嘲りを感じてしまう。つまり完璧ではない、民衆の総意が形作るものとしての神)だったり、無論ラムセスとモーゼだったり(突然夜の宮殿に現れる!まるで幽霊のように)、とにかく2人の人物の対話シーンが物語の核になっている。そして、繰り返される肯定と否定のやりとり。noと言った姉の代わりにyesといい追放されるモーゼ。noと言い続けるラムセス。yesと言うべきところで言えないモーゼの息子、へ「相手の望む答えを言うな」というモーゼ。
ラムセスの何かをつまみ口にしている仕草、は彼自身のある種の無能さの演出でもあるけど、それを投げる運動が兄弟を図らずも結び、父と子も結んでしまうのだった。
はためくカーテンによる、災厄をもたらす予兆としての風の描写、といったまちがいなさもあるし、よりによってこの作品を弟に捧ぐ、というのに映画監督としての業の深さ感じ、これからもスコットフリー最高の声をあげつづけたい。
ちなみにREDで撮影されているようだった。