見た映画。


デミアン・チャゼル『セッション』

欠点というか、行き届いていない部分が多々あるんだけど、それによって評価が下がるというより、むしろ好意をもってしまう、という、妙な映画。なんというか、精彩を欠いてる。画もストーリーも。ただそれでつまらないというかむしろ奇妙な味わいになってる。
例えばオープニングの、学校から家へ帰るアンドリューのシーケンス、映し出される街の風景がびっくりするほど魅力的でなく、曲にあわせてカットが切り替わっていくのも、やる気がないというか、適当感がある。それにあくまで映画的に、ですが、わざとださい方ださい方にいってる節がある。弁護士に諭されてげろっちゃうアンドリュー(彼を救うのが音楽でなくてこの告白だというのがまた…)とか。
映画内の動作や人物描写や風景や場所、が、それぞれ繋がったり一つの空間や動きを形成することがほぼ無く、一つ一つがばらばらに、要素同士がどんなに近接してても、断片化されたまま提示されてる。人間はそのようにしか世界をとらえられないのか。
その世界の把握の仕方が人間の主観であるならば、全編にわたって、少しピンがずれているかのようにうっすらぼやけた映像もまた、まるで誰かのイメージであるかのような演出が施されているからなのかと思ってしまう。
フレッチャー先生にとっては、チャーリー・パーカーも、バディ・リッチも、ショーン・ケイシーも、ましてやアンドリューも、どうでもよく、彼には個々の人間としてのプレイヤーがどうであろうとどうなろうと知ったことではなく、ただ彼の考えるジャズ(スターバックスに並ばない)をこの世に在らしめることだけが目的だ(重要なのはジャズではなく「彼の考える」という部分)。
アンドリューがドアから室内を覗いて、フレッチャーがこちらを見ているのに気づいて顔を背けるのほとんどホラーじみてたし、磨りガラスに姿が浮かび上がるのもそうだ。無論、あの再会もホラーだ。逃げても逃げても必ず捕まる。
ラストのステージシーン、指揮をするフレッチャーとドラムを演奏するアンドリューを左右にカメラを何度も振って、まぁワンカットの感じでとらえてるんだけど、はっきり言って白けてくるし、それだったら、それより前の楽譜紛失シーンもそうすべき(カット割らずカメラの動きでワンカットにすべき)じゃないかと思う。その方がよりホラーだ。
ラストのステージで、戻ってくる相手の真意が見抜けないフレッチャー。ここは普通、どう考えても音楽を使って(まぁそもそもそれ自体がださいと言われればそれまでなんですが)殺し合いをしに来たに決まってるのに、やれ、「何をやってる」と聞くだの、「目ん玉くり抜いてやる」と恫喝するだの、挙句ソロに突入した時ですらもう一回問いただしちゃってる。いやもう気づけよと。こいつはお前と一緒で、ジャズをやろう、音楽をやろうなんて気はもうさらさらないよと。例えば、戻ってきたアンドリューに何かまた挑発的なことを言って(「まだ1年経ってないぞ」とか…)、睨み合う2人、次の瞬間合図も出されてないのにドラムがスタートし、ニヤリと笑うフレッチャー、で曲が終わっても止まらないアンドリューへ鋭い視線を向けその目の前に立ち、激しくなるソロと指揮の手、…みたいにならないので、フレッチャーはだめな人だと描かれてるんだと思う(指導者としてもプレイヤーとしても愛好者としても)。
さっきから批判ばかりしてるようだけど、おもしろいのは、そういった諸々の点が、あえてそうしてるんじゃないかと思えることしかもその目的は、音楽学校に対する(音楽を教えることに対する)、音楽に対する、ジャズに対する、強烈なヘイトを表現し、社会や観客に叩きつけ浸透させることなんじゃないかと。
音楽を教える側(教えることが可能だと思ってる側)も、教えられる側も、くそで、音楽に関わらずそれらを一方的に見下したり偏見を持ったりしてる奴らも同様にくそだ、ということ。音楽によって精神や人格や人生を壊され命すら失うこともある、ということを提示してるのでは。
whiplashをやると嘘を教え、ステージに立たせて恨み言を言い、辱める、なんてことが、もはや指導ですらないんだけど、いやもしかしてこれも教えなのか…と思わせてしまう構造自体がろくでもない、ということ。
と考えると、キレたり優しくしたりすることだけでなく、怯えさせたり、動揺してみせたり、することもみな見せかけで、すべては焚きつけて成長させるため、だとしたら無茶苦茶だ。


ブラッド・バードトゥモローランド

元気っ子理系ガールとしたたか美少女ロボットの組合せ最高じゃないですか。もうそれだけでよくないですか。
めちゃくちゃ選民思想だけど(フランクにしろケイシーにしろ、トゥモローランドのヴィジョンを見せられた時、無条件にそれを「善きもの」としてとらえてる)、フランクの家の秘密基地っぷりとかエッフェル塔のあれなどのヴィジュアル見れただけで満足した。ジェットパックが成功するシーンも最高。空中で背負うって…トム・クルーズかよ。
あーあとイッツ・ア・スモールワールドのあのギミックとかも最高。一歩間違うと、というか完全にドラッギーな、パラノイアックな設定。
だからストーリーとかはまぁいい。ジョージ・クルーニーだと映画的本気が伝わってこないのもいい(カメラが回ってから演じているという感じ。それが当たり前なんだけど、本気の人はそうではない)。
ただよくわからない画の繋ぎがあった。子供フランクがイッツ・ア・スモールワールドのボートに乗るために柵を跨ぐのをなぜかカットを割ってその瞬間は見せなかったりとか、動きを一連で見せない編集があって、なんか微妙。
インターステラーで、マーフィが父からマーフと呼ばれてたように、トゥモローランドではケイシーはケイスと呼ばれてた。思えば両作とも理系ガールが導かれ自らの知識とともに真実にたどり着く(人類を救う)物語だった。


スコット・フランク『誘拐の掟』

はぁ…めっちゃよかった…。
冒頭の爆音かってくらいの銃声と車内での着弾とガラスに飛び散る血と事故、昼間で落ち着いたトーンの街の画、階段、とうれしいものばかりの映像が続き、挙句"LIAM NEESON in"ときたからぶちあがった。かっこよすぎ。
リーアムと切り返しで向き合うダン・スティーヴンスの青い瞳の美しさ。口ひげの濃さが変わる(決して無精髭ではない)。一貫して乱れない撫でつけられた髪の毛。という描写でこの人物が何者かが語られている(当たり前だけど兄との対比にもなっている)。
TJがスカダーに、「マット、マシューの愛称」というのなんかこわかった…。


ジョージ・ミラーマッドマックス 怒りのデス・ロード

最高‼︎‼︎‼︎‼︎好きなものしかない‼︎‼︎‼︎‼︎これこそが映画‼︎‼︎‼︎‼︎以上‼︎
逃走に次ぐ逃走に次ぐ逃走、走って登って落ちて、怒涛のカーチェイス(上空からのカメラワークで見せつけられる規模の半端なさ)、爆発の連発(あの槍はなんだ。最高か)、吹き飛ぶ人間(カメラに向かう最期の顔)とビークル(バラバラになりながらも動き続ける)、荒んで重々しい銃撃、簡素でタイトなセリフのやりとり。
女(たち)の復讐。それは与えられる暴力に対してであり(「覚えてるか」とだけしか言わないフュリオサと失われた腕)、簒奪(汚染による出奔)されたものの奪還(そのもの=緑の地ではなく代わりとしての砦)である。それは、図らずも(なすべきことをなすことへの対応の連続によって)起こる連帯と友情・愛情によって達成されるだろう(指示や支配ではなく…だからこそマックスはスプレンディドへ親指を立てる)。
しかしこれほどの激しい破壊描写の連続の中で、強度の高い逃走劇と復讐劇の中で、一瞬でも、砦の中の作物の栽培や「搾乳」の様子、ウォータンクのエンジンのかけ方(ス。イッチの入れる順番というシンプルさ!)等々といった世界観の表出をすることを忘れてない。そして、世界観を表す描写、説明を含んでるものもあれば、ほぼ含んでいない、ただ見たまんまのものもある。すごいのはこの後者を出すのは完全に美学のためで、しかも美学のために手間やコストをまったく惜しんでない、惜しむ欠片もないということ。ギター‼︎ドラム‼︎
個人的な事情や理由があるにせよ、次々と起こる事態に遭遇すればそこで最善(それは必ずしも、自分が生き残ること、ではない)を尽くし方法を探り行動していくしかない。というのは、この映画の物語の構造がそうなってる(登場人物の内面や過去や記憶の描写は最小限)し、人物たち自体がそのルールに則って動き続けてる(マックスは特にそうだし、フュリオサも「折り返し」後はその部分が強くなってく)。何が映画なのか、映画を映画たらしめてるのか、と考えた時に、こういう行動・行為・方法とその遂行のこと(=アクション?)なんじゃないかと思った。


フランシス・ローレンスハンガー・ゲーム FINAL: レジスタンス』

いやー徹底的に病んでる。映像的にも(舞台が地下を主としてるがゆえに撮影もおそらくほぼ室内のセット)人物たちの設定や状況にしても、閉塞感しかない。前2作にかろうじてあった(しかし無論歪んでる)開放感はここにはない。カットニスを守り、また彼女の存在によって鼓舞されていた騎士達は、一様に形骸化してる。一番支えになるのは夢の中に出てくる記憶のピータという体たらく。
印象的なのは不特定多数に語りかける、「演説」のシーンの多さ。と考えるとこのシリーズ自体がそれに貫かれてると言えるかも(今回はっきりと強調されてる「放送」「メディア」「プロパガンダ」のモチーフも既に在った)。コイン首相の固さ・定型っぷりの目立つ声の出し方(彼女の喋りをなぞるように口を動かすプルターク)と、カットニスの不自然さ及びあからさまな生々しさ、を、比べるとおもしろい。


ジェイソン・ムーア『ピッチ・パーフェクト

最高なレベル・ウィルソンがアドリブかますとこの皆の笑顔、本当に笑ってない?って感じでよかった。
アメリカのコメディだった。考えると、日本で劇場公開してるということは、ある一定のクオリティないしセンスを持ってるということなんだなーと。つまり文化的な笑いを持ち込んでないというか。いや日本で見れるコメディでおーアメリカっぽい笑いだって思うことはあったけどそれだってまだ共通項あったってことか。
なんというか、作中で何が良いもの・かっこいいものであるとされ、なにがださいものとされるか、の分け方がしっくり来なかったのかなと思った。無論、それを理解するためには、素養が必要なのもわかるんだけど
例えば、グリー以降の価値観の上に、トレブルの良さ・評価の高さがあるんだろうなとも思うし、アメリカの一連のオーディション番組ののりのパロディーのようなものとして、審査員たちの評価や観客のリアクションがあるんだろうし。
ただ前者でいえば、やっぱりかっこいい男子がいないとどうしても腑に落ちないしそういう考え方から外れてるのわかってんだけど見てて楽しくないのはしょうがない。後者の感じも理解できるとした上で、やっぱりテレビ番組だというリアリティを保つための装置の一つでしかないとしか思えなかった。すごい安易なお約束というか。せめてもうちょっとあの2人に動きがあればなーと。
オーディション自体も何かのパロディーなのかな。というか司会でクリストファー・ミンツ=プラッセ出てたけど一体何だったんだ。無駄遣い感が…。
暗い中ノートPCで一緒に映画見る、ジャケで笑わせる、パックのジュース持ってくる(「pac juice持ってきて完璧じゃん!(なのにかのじいないの?)」というフレーズ笑った)とか、確かに弱々しいんだけどこれがリアルな恋愛描写なんだよなーでもそれでいいのか?
音楽の使い方も物足りなくて、ラストでようやく(と言っていいかと)ベッカの(彼に対する)選曲におっというとこが現れるくらい。終盤のプールのシーンの速攻で選ばれるjust the way you areとか、バスの中で歌い出すのとか、そこにもっと盛り上げる演出とか描写をくれと。あれだけ何度も歌ってたthe signを最後使ってくれと。絶対「また同じ曲か…ん!?」だと思ったのに。
オーブリーが意固地に持ち曲しかやろうとしなかった理由も、トラウマになってるものがあったわけだし…音楽で救われたり父親と和解したりとかさ…まぁそれを言っちゃうと他のメンバーもそうなんだけど、それはさすがにボリューム的に厳しいけど、それでもクロエとか…。
やる気なしでパフォーマンスするアナケンかわいかったけど、やべぇなという域には達してなかったかと
飽きられて評価の下がる曲に固執することと同じだけ、違う新しい曲にしたら評価されると思うのはバカげてると思う。しかもそれで実際に評価されちゃうってのは…。曲が流れださいから悪かったわけじゃないんじゃないか。実際、ベッカが「編曲」という言葉を口にするわけだし。