最近見た映画。めちゃくちゃたまってた…。音楽のこととかも書きたいのだけれど(ケンドリック・ラマーの激烈な新譜について、とか…)時間ない。


クリント・イーストウッドアメリカン・スナイパー

驚くべき省略の編集手管。戦場、狩場、教会、ロデオ、訓練、バー、結婚式、と必要以上に見せずに次々と時間が進みシーンが変わる。あまりにもあっけなく回想がはじまるが厳格なルールのごとく元の時制に戻る。こういう映画内時間感覚が自分にとってのイーストウッド
戦場ではなくてアメリカに戻ってきている時に出会う人々。不意打ちに血圧を測る女医、やりとりのできないガラス越しの部屋の看護婦、感謝を述べる退役兵士たちは、まるでクリスに害をなす人々のように行動する、というかクリス自身がそう感じてるのが伝わってきて日常の営為が恐怖や不穏さを帯びる。
対してあからさまに描かれる芝刈機やタイヤ交換の工具やフラフープや犬の喚起する恐怖はある種コメディのように感じられてしまった。タヤの発言の、戦争は人を変える、その「あるある」の持つ馬鹿馬鹿しさ。というかこの妻の言葉自体がものすごく陳腐じゃないか。あなたはここにいるが心は戦場にいる、とか、あなたが努力をしたから元の姿に戻れた、といったタヤの夫への投げかけは、あきらかにはっきりと言葉にしすぎている(「普通」ならば、それらは映像的に示されるべきなのでは、というかすでにしているにも関わらず)なぜだろうか。
もちろん陳腐なのがいけないわけじゃない。ただこの下らなさが真実だとし固執すること、その固執の身振りを語りや演出で示すこと、の目的を知りたいだけで。そういうことをしなくてもいいはずのイーストウッドがなぜ、と
戦場の話を執拗に要求されても拒否するクリスが勢い余って車中で吐露してもそれは産気づく妻というコメディ的身振りにかき消されうやむやにされる、というのはその直後の大胆な車線変更を笑うという妻自身の行動にも裏付けられる。
…はっきり思い込みを言ってしまえばタヤが「戦争は人を変える」というシーンに何者かの嘲りが浮かんでる。何も知らないお前が何を言うか、と。その嘲笑の主はだれか。
…さらに思い込みを言うと、映画秘宝イーストウッドインタビュー、さもつい最近知ったように戦争が赴いた人々にもたらすトラウマのことを語っていて、というのも、その言い方が、昔はそんなものなかった(実はあったんだけど)、というものだったから余計にそう感じた。
すげーおこがましくて恐縮なのですがあんましっくりこなかった。はっきりとした理由わからない。冒頭の戦場のシーンになぜか入りこめず。ロデオ、ヘリ、無人機、イラクの町の鳥瞰映像、のもろCGな感じがひっかかってしまった。
カウボーイのことを思うと(ロデオとセックスの描写)『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のもう一人のカウボーイを思い出す。後者は自己の欲望を突き詰めた結果アメリカに仇なす存在になるがそれが世界と人々にとって善になる。前者はどうか。パトリオティズムの限界?


マイケル・スピエリッグピーター・スピエリッグプリデスティネーション

サラ・スヌークという素晴らしい俳優を知り得たことがうれしい。彼女演じるジェーンが何度も声音や言い方を変えながら自己紹介の練習を繰り返すシーンのすごみ…。
というかこの作品自体がすごいことになっていて、そのすごさは原作起因でもあるのだけど、キャスト、セット、ロケーション、のクオリティの高さかつ最小限っぷり・タイトさもやばいなと。タイトさでいえばあの装置は原作どおりなのか…中身の構造一切わからずダイヤルだけ。『インセプション』のあれに通ずる簡素さ。
宇宙慰安婦のくだり、面接やら訓練やら何やら含めてふわふわしてる、というか曖昧というか、「非現実的」(まぁそんなこと言ったら元も子もないけど)だと思ったら目的は別のところにあったからだったんだな、と。
すべての決断、発言、身振り、行為がある一点に向かい、それはすなわち映画そのもののエンドであり、はたまたそれは物語の始まり=映画のオープニングへとつながる、という構造自体にテンションあがってしまう。
にしても近年のイーサン・ホークはつくづくはずれなしだ。


DVDでドン・シーゲルダーティハリー

見ると『アウトロー』がいかにこの作品に依ってるかわかる。オープニングの狙撃シーンと喋りの無さや公衆電話の使い方など。冒頭からラストまで頻出する引きの画の使い方のセンスの良さ(というのもおこがましですが)。最終対決の銃撃戦の、工場地帯の空間の使い方最高(ファーナスはなにをやっとるんだという気持ちになった)。
とりあえずイーストウッドのトラッドスタイルかっこよすぎる。


ブルーレイでアラン・J・パクラパララックス・ビュー

この引き算で作られた作品はなんなんだ。高層でのもみ合い、犯人の落下、カメラが微動だにせずスペクタクル的演出は皆無。そして説明がないからジョーと女性キャスターの関係性も殺されてく人々が何者なのかもほぼわからない。
ダムの放水も実際の現場で撮っているのが時代のせいにしても感動した。
不要とも思える酒場での乱闘(長いしかつ異なる二つの店の使い方の上手さ)やパトカーでの激しいカーアクション(高低差のある強引な車線変更、建物への突入)の手間のかけ方とクオリティの高さ。
劇中のテスト映像のすばらしさ、が、観客を虚実の境目へと連れて行く(この映像を見る/見たであろう映画内の人々への狙いもまた価値観の揺らぎを引き起こすためであろう)。
ウォーレン・ベイティ、酒場の「女だよ」「君には抱かれたくない」という時のおちつきっぷりがよかったな。ここに限らず本来なら感情的になるシーン(飛行機や勝手に部屋に入ってこられている時)の抑制。


パララックス・ビュー』と『ダーティハリー』を続けて見たので共通点について考えてる。カーチェイスや格闘や銃撃戦といった網羅性(ジャンルとして必ず触れなければいけない要素?)。望遠による俯瞰の画(非エモーショナルな『ダーティハリー』のラスト)。映像による円環構造。


ブルーレイで吉田恵輔銀の匙 Silver Spoon

吹石一恵の衣装、広瀬アリスの四肢の撮り方におもむきあり(しかし『さんかく』『麦子さんと』『銀の匙』と吉田恵輔はどんどんフェティシズムが残って特化していってるなぁ)。後者は八軒の視線が誘導してくれさえする。にしても石橋蓮司の子供が哀川翔竹内力って強すぎだろう。
ともかく馬ががんがん出てきてキャストに実際に扱わせてるのがすごいと単純に思う。


ジョン・ファヴロー『シェフ 〜三ツ星フードトラック始めました〜』

評論家批判映画といえば『レディ・イン・ザ・ウォーター』なんだけど今作はそれに加えてスポンサーも批判してる。ストレスフルな映画業界で監督であることのハードデイズ、…という風に見てくれと言わんばかりのつくり。
だけどトラックを買ってからが俄然生き生きしてくる。ジョン・レグイザモ無双。スペイン語によるコミュニケーションの円滑さの描写(親子間や職場でのうまくいかなさ、SNSのむずかしさと対照的)。マイアミ、ニューオーリンズ、テキサス、を巡り異なる文化圏の街並みを見れる。そこに国家としての豊かさが賭けられている。そして星条旗と共に車に掲げられその後も登場するキューバの国旗。
でも最後のパーティの出席者によってこの作品の類型の足りなさがわかる。たとえスケジュールの問題だったとしてもいるべき人がいない。
ロバート・ダウニーJr.の登場うれしいがあの設定や演出の「とってつけた」感はなんなんパスタが作られてく画とスカヨハがそれをじりじりと待ち望む(ほんとあからさまなまでの)「セクシー」な姿のカットバックが多いのわらってしまった。しつこい。


DVDでフィル・ロードクリストファー・ミラー『21ジャンプストリート』

最高。怒涛のブロマンス描写に嬉しさで卒倒しそうだった。個人的には冒頭のThe Real Slim Shadyから完全に心掴まれてしまった。
過去の作品のリメイクと既存の捜査方法の繰り返しと再び高校に通うこと、が重なる。「昔のクソを再利用」とは言うのだけど無論そのまま昔のやり方は踏襲できないのだった(「リメイク」のことと言えばエリックのリサイクルの歌も示唆的ではある)。
潜入までの過程を手際よく描いていく。その後も余計なものはなく、だからといって肝心なことは外さない(印象的なのは同僚捜査官のチアリーダーブラスバンド姿にまったく触れないこと…ダコタ・ジョンソンなのに)。これだよこれという感じ。
上司が利用しろと指示するステレオタイプとそこからの逸脱するおもしろさ。シュミットとジェンコの役割の交換、なかなか起こらない爆発、ようやくラストに成功する車の飛び越え。アメリカ映画における類型の力の強さ。
アイスキューブ演じる上司もまた、無論あえて、ステレオタイプを過剰に押し出している。
最後の指示に対する二人の反応が冒頭のそれとは真逆になるのもおもしろい。
バックパックを片側だけでかけている人もいないし、ナード、ゴス、と分類していって次第にカテゴライズできなくなっていくのもおもしろかった。しかし勝ち残る・人気者になるという価値観だけは残ってる。


ブルーレイで沖田修一南極料理人

なんというか、ある意味めちゃくちゃ当たり前なのだけれど、カメラワークや人物の配置、演出に何かの縛りや制限を与え、それとの関係性で動かされている映画だった。
印象的なのはタイチョーが寝ている西村の部屋を訪問するシーン。ここでおそらく作中唯一ズームアップが使われてる。顔が次第に大きくなるにつれて観客はタイチョーが泣いていることがわかるのだけれどその「わかり方」はおそらく寝起きの西村の「わかり方」と重なる。
一切使われない「おいしい」「うまい」の代わりにがっつく姿と「伸びちゃうよ」「ここは…南極だよな」という食べ物のおかれる状況に対する言葉。
西村とドクターのテレビ画面越しの「再会」は『横道世之介』の慎ましやかな幾つかの「再会」を思い出させる。
一方的に見られるだけの遅延する映像と音声だけのやり取りによって父と娘の会話がなされる。
説明の抑制、というか食べ物自体の「シズル感」?ではなくてそれを食べる人々の姿が主になる(しかしほとんど意識せずにシェフと南極料理人を続けて見たのだけど後者の抑制っぷりよ)。
南極では、みな子供になるのだった…。


ジョシュ・ブーン『きっと、星のせいじゃない。』

シェイリーン・ウッドリーさんの背中、いいねー。きたえられたアスリートのような綺麗さ。アンセルくんの胸筋のふくらみもいいよ。なんだこの感想は。で、映画とはほぼ関係ないけど、武田真治が、若い身体は美しいのが当たり前(だからこそ見せなかった)と話してるのを読んで、それを思い出していた。病気であること、若いこと、肉体が美しいこと、それらの関係性。
終盤の、ヘイゼルの酸素ボンベ、オーガスタスの車椅子、アイザック白杖、が同時に動きお互いを支え合う教会の生前葬のシーンの画にぐっときてしまう。
お母さんの「キュートなカップルね」、オーガスタスの「美しい」「きれいだ」、という率直な褒め言葉の強さを感じる映画。
アンネ・フランクの家での出来事、そこまでやるのはまずいんじゃないの?と思う気持ちを拍手で帳消しにしようとしてる。まぁそもそもそのまずいという気持ち、は、不謹慎だ、という気持ちであって、そうなるとあんまり大したことない。
というのも、アンネの言葉の朗読とヘイゼルが息を切らして階段を登ってく姿がかなり長めに描写されて(実物がそうなんだろうし苦しさの表現でもあるんだけど)いつしかアンネとヘイゼルが重なっていくんだけど(そう思わない人もいるかな…)、そうすると長きに渡る隠れ家生活でのアンネの「恋愛」を思い出してしまう。日記を読むと彼女の心の揺れ動きがわかるんだけど、それを客観的に見ると異常な潜行生活のせいなんじゃないかと思わずにはいられない。となるとヘイゼルがあそこで弾けたのも、そういうことなんじゃないかと思ってしまうわけで。卑近な言い方だと吊り橋効果というか…。
そもそも異なる種類の困難に置かれた2人の少女を重ねることが雑な気がしないでもないが反面そういうことこそが映画特有の強引さなんじゃないかと思ったり。
にしてもデフォーさんの登場には歓喜。誰があの役を演じてるんだろーなーと思ったら…。全然知らなかった。