常識では考えられないビートたけしの"ビークー"(北野武『首』)

ビークー、じゃなくて『首』、というタイトルで思いつくのはやっぱり、仕事を辞める時の「クビ」だ。漫才のオチとして「やめさせてもらうわ」というフレーズがあるが、もちろん東京の漫才ではあまり見られない。どっちかというと相手に「やめなさい」と言う感じか。多分ツービートもやってなかっただろう。本作は、やめる気がない、やめるとしたら死ぬしかない人々の話だ。劇団ひとり浅草キッド』における北野武が言う、「おもしれえ死に方して笑わしてやるよ」というセリフを想起する。閑話休題

それにしても本作は北野映画史上、最も「車まわした」映画じゃないだろうか。めちゃくちゃ車まわさせてたなぁ、たけしさん。実際に車まわしたり、まわさせたりしてた『アウトレイジ』より、『首』の方が車まわさせてたな。そしてなぜか、ガキ使における遠藤たけしによる、結果的にたけし軍団の誰もたけしに従わず、誰も車をまわさないという奇妙な事態を描くことになってしまう、過剰に反復されたモノマネを想起する。またしても閑話休題

…というか、わたしの語ることは全て閑話なんですが、それはそれとして上記内容は、どれもわたしの身に染みついている「お笑い」的な話題で、そこからとてつもなく無理やり映画の話をするならば、暗黒舞踏(のようなもの?)、能、タップといった、身体と直接連動し、外部によって時間的にも空間的にも切断されず、運動そのものの姿が観客の前にあらわになる表現を出さずにいられないのは、これまた身一つで、語りだけで表現する(ものだと自身で規定している)お笑い芸人として、監督がシンパシーを感じているからかもしれない(劇団ひとり監督作品にも同様のものを感じる)。

それにしても、秀長、官兵衛といる時に声を張り上げる秀吉、あんまり笑い的に安定してない布陣の時に気遣ってるたけしさんじゃん、と思ってしまったな。
そういう意味では私が考えるキャスティング、この映画に出ている人で当てはめるなら、秀長は劇団ひとり、官兵衛は荒川良々だろう。でもそれやるとあまりにおもしろくなりすぎてしまうから自重したのだろう(?)。
…あと、まさかとは思うが、官兵衛=安住紳一郎、とかがあったんじゃないかな。まぁ、わかんないっすけど…。

そして、お笑いにおいても、映画においても、北野武がことあるごとに、様々なエピソードに擬態させ、または変奏して語る、最も成功した瞬間に、全てを台無しにするやらかしを起こす、という出来事(の妄想)が、本作でも繰り返されることになる。
そしてわたしはなぜか、劇中には存在しない腹上死を幻視してしまう。『アウトレイジ』にはあったか?でもあれは、女性が死んだのか…。
つまり、極上の快楽を得た次の瞬間に事切れる、というイメージだ。その時人間は、永遠の快感を得ることができるのだろうか?

抱きしめるということは相手を死に至らしめることが可能になる、ということでもある。お互いを刀で刺しあう、「刺し違える」ことも起こりうる。刺すものが棒状であることにも含意がある、としか言いようがない、陰陽の形を模して死体を晒す、新左衛門と間宮のエロティックな死に様。
接近という現象は親密さと拒絶、労りと暴力を同時に含み、実現する。さらに、そうして近寄った相手を殴ることはつまり、最早、相手に殴られたいという願望を示すことと同義だ。仕返しされたい、刺した相手に刺されたい、与えた傷を自分に転移させたい(血だらけで傷ついた口に貪りつく信長!)という欲求。さらに果ては相手も不要となり、自分で自分の腹を切り、首を落とす。
しかしこうした現象は、ある固定され、閉鎖された関係性の中でしか成り立たない。だから、その構造の部外者たる茂助や秀吉にとっては、武士たちの奇妙な死に方は自慰行為でしかなく、それゆえ、はっきり見ることもせず、見たとしても呆気にとられて理解に苦しむだけで、その行為に価値を見出したりなどしない。だから、首を蹴り飛ばすこともできるわけだ。

ただ、安易に二項を立てて、それらを対立させたいわけではない。本作の二項、ないし二極の、結局のところどちらにおいても、生命は軽んじられ、問題解決の一番簡易な方法は死しかない。その死が、自己の成功のために蹴落とすべき他者のものなのか、自分自身をも含んでしまっているか、の違いはある。「どうせお前、死ぬけどな」と半笑いで、まるで気軽に友人に話しかけるがごとくつぶやく秀吉と、「人間すべて遊び」であると怒り狂って怒鳴りちらす信長(そして、自ら死に追いやろうとする檻の中の想い人へきんに君ばりの暗黒微笑を向け、近代と断絶した武士の思想を語り、「わかんないよ!」と泣きつかれる光秀 a.k.a. 闇シロさん…)。
そうして、本作も当然、北野映画における軽口、唆しの系譜に連なることになる。言葉によって容易く状況は悪化し、人が死ぬ。
教唆煽動の筋道は、立ちすぎていてよくわからなくなる、または、その筋道が開示されておらず、事後的に語られるがゆえに、あらかじめ筋道を理解した上で見ることができない、というような感じだ。どちらにせよややこしい。

『レジェンド&バタフライ』に続いて本作も、見ていてスコセッシ『沈黙-サイレンス-』(のグロテスクさ)を思い起こさずにはいられなかった。いやそれはもしかして、大島渚なのかもしれないが…それは自分は不勉強のためよくわからない。終盤の森の中のシーンは少しだけ『イングロリアス・バスターズ』のようでもある。
タランティーノにも北野武にも、ともかく何もかも根絶やしにする、という願望が潜んでいるように思える。そう言いつつもタランティーノは、どこかで次の世代に何かを残そうとしてはいるけど(それがたとえ私生児であっても)。あ、『シン・仮面ライダー』っぽいカットはマジでそうだったと言わざるを得ない。あそこは武さんが(東宝スタジオの編集室で?)シンカメ見て真似たのか?

ところで、完全に風雲秀吉城すぎる、川を渡る時に運ばれる秀吉が、運ばれながら、息も絶え絶えで、ゆるやかに嘔吐するシーンが、何かしこりのように、頭の中に残ってる。疲れ、死が間近に迫っているような不吉さ……。