見た映画。まとめないうちにどんどんたまっていきもうどうしようもない…。


ジャウマ・コレット=セララン・オールナイト

一方を抱き寄せ両手に抱え、もう一方はまるで全てを許すように相手を優しく撫でる。この、ある男同士の濃密な別れに対して、今作で二度描かれる実の父子の別離は、時間的空間的に接近できずに終わる。この対比をほぼ言葉はなく人物の配置と動きだけで示している巧みさ。
銃撃戦・追跡劇・格闘を持ち込む場所の絶妙な選定(住宅街の狭い路地・巨大団地・地下室・操車場・湖畔の林)と加えられる設定によって人物達のアクションが魅力を持ったものになる(金網や柵や壁の乗り越えや突破及びその連鎖、高低差を利用する上下運動)。
プライスの外連味溢れる(とあえて言おう)武器を映像的に生かす為、彼の現れる場所には必ず煙や靄がある。
息子が殺されそうになれば躊躇なく引き金を引く。ショーンは「わかってるな」と言うだけで何も明示しない(指示行為は描かれない)がジミーは理解するし、事実警察官たちは視線のやりとりだけで為すべき事を決めマイクを陥れようとする。
警察官殺しは有無を言わさず断罪の対象となる。ジミーは決意表明とともにバーへ乗り込みマフィアたちを瞬殺していく(ショーンの"jimmy is coming"というセリフが与えるイメージのように、それは嵐がやってくるがごとく防ぎようがない)。
プライスは依頼主が去った後も任務遂行を続行する。劇中の出来事は、あるきっかけによって動き出せば、転がり出せば、止められない。一度レストランで停止が呼びかけられるが「もう二度と幸せにはなれない」女性がいる限り不可能であることが明らかになるだけ。
この自動運動は血縁・親子関係のことであり、そこには選択が無くなったかのようだ。
見てても、やっぱりアフレコの違和感を感じた。特にジョエル・キナマン。というか先入観もあるかもだけど、アメリカ人に見えなくて…でもそれを言えばリーアムもそうなわけで、そうなるとじゃあアメリカ人ってなんなんだという話になる。


ウェス・ボールメイズ・ランナー

良い声の渋いローガン・ラーマンくんみたいな主人公とクリステン・スチュワートそっくりのヒロインと、あとアメリカの神木きゅんが出てきた(かわいかった)。
例えばダイバージェントでケイト・ウィンスレット、ハンガーゲームでジュリアン・ムーア、で今作はパトリシア・クラークソンなんだけどうーん、という感じだなー。
クリーチャーの目がなくて触手がちゃがちゃでやたら早く動いて尻尾に針があって二段階のギミックがあって…ってやつ、まじベタ中のベタっぽい。
男だけで何年も集団生活を送らせ、秩序と平和の世界であったところに、今まで1人もいなかった女子を送り込み(「そんな…ばかな」みたいなリアクションがおもしろい)、それが「最後」であるという指示があるの、非常に示唆的というか。
物資支給がlastだという意味でもあり、ある種のユートピアの終焉という意味でもあり。ただ問題は、その前の、1人の特別な男子(皆を惹きつけ希望を与え嫉妬を煽る)の登場がすでにその役割を果たしてたんじゃないかということで。
greeny(この単語も何か、特異なイメージを感じる…性的とまでは言わないまでも…)と囃し立てられ、イニシエーション的な、じゃれ合いのような格闘やmazeからの生還を経て、魅力を増しリーダーとなる少年…。つまり女子蚊帳の外じゃないんですかという話。


北野武龍三と七人の子分たち

清水富美加の彼氏の演技・セリフの喋り方、モキチが隠れてるトイレのOLのおそらくアドリブの(でなければ納得できない)会話内容の薄さ、終盤の下條アトムが車から突き落とされる時明らかに一度普通に降り立ってしまいその後無理矢理転がったのが丸わかりの動き、萬久の刺青へのぐだぐたな喜び方、のNGっぷりがはんぱない。例えば、団地で車を停めてその前で皆が横一列に並ぶシーンで、一瞬演技「前」の使ったりするような、あえてのものなのかどうか…そうでない気がする。
笑いのことやら、編集のことやら言うの、本当おこがましいのあえて言うけど、ジュウシマツのくだり、つまみがない→鳥籠にいない→お皿の上の骨、でわかるのでは。確かに頭の骨がある面白さは強めたいところだけど。それと西郷さんの鳩は、一旦会話が終わってるのに再度出すのどうなんだろう…賭けの話からインサートしてその下でもう待ち合わせてる、でいいのでは。挙句マックとRIKIYAのやりとり、頻繁な顔のカットバックと、おそらく現代的にアップデートされた笑いを目論んでると思われる細かいつっこみ、の過剰さ・重さはなんなんだ。
街宣車、棺桶の中の遺体(必須の綿)(からの執拗な死体ネタ)、店ではなく路上に立つ「男」たち、米軍の航空母艦横須賀基地)、を躊躇なく映す。
並列にするのもなんだけど、アウトレイジでいきなり大友の出自と韓国マフィアのボスが出てきた時の驚きを思い出す。この、意図的にカメラを避けられがちなものをとらえるあっけらかんとした「不謹慎さ」(誰がそれを決めているのか)。
「本当に」行われるバスによるカーチェイスと追突はやっぱり良いし、セスナの空撮もあり、「飛行機をビルに突っ込ませる」からの在日米軍基地への移行という強烈さに動揺してしまう(しかしなぜ動揺するのか)。
京浜連合のビルの受付嬢が、柊瑠美っぽいな…と思ってたらエンドロールで名前出てておーっと思った。
こいつら、狂ってやがる…って、別に狂ってない。


ニール・ブロムカンプ『チャッピー』

ムース出撃の時の、どうやって出るんだろ、と思ってからの少しずつ上昇していく姿を見てあーこいつ飛ぶんだーと思った瞬間の喜び。
そして終盤の展開と、果てに辿り着くとりあえずの結末の、たたみかけるようなでたらめさは大好きだ。
確かにこれは、ぼくのかんがえるロボコップ、これが真のリメイクだ!という感じ。ぼんくらなチンピラたち、ポップな武器造形(ディオンが持ち出した銃は、明らかにクラレンスたちが使ってたものがソースになってるんでは)、廃屋のセレクト、に宿るバーホーベンイズム。
ヨーランディ、吹替の一人称は「あたい」にしてほしい。


三宅唱『THE COCKPIT』

歌モノのネタを入れてその箇所を聴く瞬間の、揺らされるOMSBの首のまるでCGのような激しく生々しい動きに、おそらくこの映画を作っている人々も魅せられていているからこそ、正面だけでなく横からのカットでもその様子をとらえている。
曲作りに没頭するOMSBのクローズアップからは、撮影者/編集者/監督のがその「顔」の魅力に囚われてしまったことがひしひしと伝わってくるし、観客もその一員となる。帽子を被りなおすbimの所作と対比したくなってしまう。この「ドラマ」の「主役」はOMSBだ、とはっきり言ってしまいたい。
見た後にこれを読んでBADBADNOTGOODとゴーストフェイスキラーのSour Soulとケンドリックを聴き直して見たんだけど、劇中のビートとは何か違ってて、それはなんだと考えた時に、OMSBがMPCを叩くことで刻まれるリズムは、裏打ちほどは離れていないけど、正しい地点から先か手前(かははっきりと決められないのだけど)にテンポが少しずれていて、前者2作はそうなっていなく、やはり近いのは(なんとなく親和性があると思って聴いた)The RootsのDilla Jointsだった。