ウィル・グラックステイ・フレンズ』DVDで見た。

人物を撮っている時と、空撮や遠目からの風景の時と、画質が違いすぎるような気がした。後者が、ざらついていて、その大きさ、画角で撮影していないものを、拡大したりして、都合のよいサイズにトリミングしているような感じ。フィルムと、ビデオの違い、なのだろうか、わからないけれど。
それと、これ見よがしに、ソニー製品使ってた。ハリウッド映画で、スマホiphone以外だと、違和感ある。何で、Foster the People…?と思ったら、まぁ流行ってるのもあるのかもしれないんだけれど、ソニーのアーティストだからなんだろう。
主人公たちの過去の経験としての恋愛、またフィクションの(ベタなラブコメの、「ジョージ・クルーニー」の)恋愛、というすでにあるもの・あったものを「前提」とすることで、それに対するカウンターとしてラブストーリーを描き始める。必然的に、メタ視点になる、という。
ちなみに、この作品で2度、「対象」となる人間は入れ替わるが、描かれる、フラッシュモブ、というものの、自然に発生している風に装っているが実際は仕込まれている(いつどこで起こるかは決まっている…だからジェレミーはニューヨークについたばかりのディランをそこに遭遇させることが出来たわけだが)という性質は、示唆的だ。
まぁでも、そんなんだけで男女がうまくいくことはなく(と、この映画では、一先ずそう考えられている)、よりパーソナルな問題を中心としていかざるを得なくなる(これは作劇上の話でもあるが)。その時に、肯定的にも障害としても機能するのは、家族という存在である。
いやもしかすると、家族が上位概念となって、その人物を語ってしまい、抱える問題を解決する糸口にも(もちろん問題そのものを生み出す機構としても)なりうる、ということか。ディランは父が、ジェレミーは母が、その役割を果たし、結果的にそれぞれがメンター的関係性を形成することになる。
2人のセックスは、生々しくセクシャルなものではなく、効率的に結果を求める単なる「行為」となることで、戯画的に、笑いを伴って、反復され、描かれる(だから親に見られる、家族に気付かれる、という「事件」が起こっても、ネガティヴに振れない)。
それに対して、ジェレミーと小児科医のそれは、明かりを消して(欠点も見えなくして)行われ、映画内で描写されることはない。それはまるで、彼女が、ハッピーエンドのキスの後が見たいのに、と不満を漏らす劇中の映画のようで、欠けてしまっている(その同時期のディランは、猛獣のように唸る女性と何かあったのかはわからない。が、これも、意図的に邪魔が入り、おそらく…)。
では、後、にはなにがあるか、と言えば、エンドロールの後には、NG集、があり、それは(少々のわざとらしさはあれど)、「本編より面白い」。
そう、ラブコメは、始まりを描くだけで、その本当の面白さ(つらさ、も?)は、その、後、に待ち構えている、ということだろうか。
個人的には、ジャスティン・ティンバーレイク、もっと歌って踊ってよ、と思っていたので、クリス・クロスのくだりはちょっとだけど良かったな。タイト目のボタンダウンのシャツ、ジーンズ、ニットタイ、とか、ファッションも良い。
ミラ・クニスは、なにかっつーと、「情緒不安定」な(それゆえダメージを受ける)女性を演じていないか。
エマ・ストーンの登場にはびっくりした。しっかし、興味ないのはいいんだけど、あんな不細工に撮らなくても…。
佐倉準湯神くんには友達がいない』2巻買って読んだ。お、おい…こりゃあまぎれもない傑作だよ。野球の試合を、こんなに、野球の本筋と関係なくおもしろく描けるマンガあるか。まったく別のものに作り替えてしまう手腕にしびれたよ。登場人物はひたすらイライラし続ける(《そんな 今更な問題を このタイミングで まぜっかえす 必要があるの!?》には笑った…)マンガ。
そして、施川ユウキ『鬱ごはん』1巻も買った。おもしろいし、泣いたりびっくりしたりする描写がなんか新鮮(施川ユウキって、そんなん描かなかったようなきがしたから)。生きにくさ、の過剰なまでの噴出。