マーティン・スコセッシ『沈黙 -サイレンス-』


イッセー尾形さん、まじでクリストフ・ヴァルツみたいだった!
しかし"長い"映画というのはやっぱり"変"で(というか原理的にはあり得ない)今作も2つの映画を一つにくっつけるという変則的な手段が用いられてる(例えば細切れの戦いの積み重ねであるホビット、外部の力を用いることで成立させたシビルウォーなど)。ちなみにスコセッシは絶対にそれをわかってるはず(90分/120分超えることの意味)。もしかするとあえて長くしてるかもしれず。長いものこそ映画(館で見る映像)だと。
』波飛沫、霧、靄、に包まれ姿は見えず、そこからゆっくりと浮かび上がる日本は、形だけの・形式だけの、中身の無い(表面は在る、その下には価値のある・有益な・"栄養"に富んだものは詰まってない)存在だ。
というか、日本のことではなく、これは人間のことなんじゃ無いか、という。中身はある・真理はある・神はいるvs中身は空っぽ・普遍の真理など無い(いかようにも変貌し得る)・神は何もしない(だからこそ"お前"が声を出すしかない)という対決。登場する日本家屋か象徴的だったなーと。その遮蔽性・隠蔽の力、は形式的なものでしかない(薄い木の板で囲われてるだけ)。
カメラワークですが(撮影はロドリゴ・プリエト)、冒頭の三者対談の愚直なまでの切返しの連続や、中盤の牢内からの視界(木の檻がまるで枚数の少ないフィルムのコマ送り映像のようになる!)などが印象深い。
あと、ロドリゴが川面に見るアレのあまりにもなあからさまさにギョッとしたらここが一つの切れ目でここから後半戦としての不条理コメディへ突入する…んだけどそれ以外にも序盤のロドリゴとモキチのロザリオのやり取りの丁寧すぎる丁寧さ、もちろんラストカットのアレの見せ方、とにかく映像的親切さ(慎み深さと対極)が所々顔を出す。ただ決して欠点ではなくて、まるでこの作品に刻まれた傷というか窪みのようだ。
もちろん肉体の映画でもある(だけど肉体の映画でない映画などあるのか)。拷問で傷つけられる肌、人体を焼き尽くさんとする炎、泥と土の詰まった爪、白砂に描かれる一筋の赤線、痩せ衰えた肋骨とその異形っぷりを思う存分発揮するアダム・ドライバー…。
これはネタバレですが、リーアム・ニーソンクワイ=ガン・ジンみたいに現れます。
これもネタバレですが、神の声が聞こえあまつさえ会話さえさせてしまうの、よく考えたら超絶やばいような気がする。
よく考えたら、アダム・ドライバー片桐はいりさんのショートコントをスコセッシの映画で見れたのやばいな…。