マーティン・スコセッシウルフ・オブ・ウォールストリート』見た。

THE最高。最の高。
ミーン・ストリート』『グッドフェローズ』、狂騒・狂乱のスコセッシの帰還。
ウィキペディアの、《また映画では「fuck」が506回使われており、非ドキュメンタリー作品としては史上最多となっている。》も最高。
柳下さんのTwitterでの《やばい。政治的に正しいウルフ・オブ・ウォールストリート」のレビュウの書き方がわからない。頭からケツまで政治的に正しくないことしか起こらないので、画面で起こっていることを政治的に正しく描写することができないのだ。どうしよう!?》というつぶやき、まさにその通り。職場でのフルスロットルなセクハラ、ストリッパーを呼んだり、売春婦とのセックス、女性社員いるにもかかわらず。
丸刈りにされ、「見返り」?として100万ドルもらう女性の表情(これは映画制作側からのアプローチ)、ジョーダンの引退発表の時の女性社員の紹介(これは「ストラットン・オークモント社側」からの)とか、バランスを少しでも取ろうとしている(だからこそこの映画の「本流」から逸脱している、のがおもしろい)けれど、天秤は全然釣り合わない。

おそるべき冗長さ。薬でトチ狂って呂律も回らず身体も思うように動かせない状態での「乱闘」、男女の痴話げんかからのいちゃいちゃ(マミーとダディー)、会社での「余興」に関する不毛すぎる会議(「あいつらは投げられるようにできている」!)、素人目にも、枝葉(しかもその内容は本当に下衆い)をやたらめったら残している。
その会話、人々のやりとりが延々続く。喋っている人間のワンショットのきりかえし。あまり寄り目にならず、背景も含めて映してあって、自分の好みとしてはその方が良い。だからこそ、スイスの銀行の窓でのありえないくらいちゃちな合成とかが生まれるわけで(なんかもう逆にほめている)。CGや合成が頻繁に使われている、けれど、それが妙に(今の技術にしては)チープだったりもする(人工物だと目立たないけれど、自然のもの…たとえば、イギリスの公園のシーンとかは、かなり目立つ)のも愛したい。

ディカプリオは、いつもの(ほんと、心の底から「いつものやつ」って感じだけれど)眉間にしわ寄せも多発しているんだけれど、そうやってられないシーン(それこそ前出のラリパッパとか)もあるので、気にならない(いや、本当はちょっと気になったけれど)。し、あのうさんくささと頼りがいの入り混じった口調・喋り方・声の出し方、ノーパンを覗き見たがる時の「どうしようもない」仕草、の全力っぷり、…なによりも、ロックスターっぷりだろう。常に手にされるマイク、「観客」の間をすり抜けて登壇するステージ、撤回される引退(「俺はまだまだやるぞ!」的な)、…「スター」でなくてはできない振る舞い。
だからこそ、パフォーマンスが続いている間は、それに賛同し、参加し続けなければならない。この「会場」には、金魚鉢を掃除したり、そういういわば、「プライベート」的な観点や行為を持ちこむことは許されない。しかしそれは、「仮設」にすぎないのだけれど。オフィスが出来ていくシーンに見られるように、元をただせばただのガレージに過ぎないのだから。夏フェスのごとく、イベントが終わるとばらされる。

刹那っぷりの演出の一方で、ペンを一本売る、という行為に、一抹の抒情のようなものをこめるのも素敵。それを一番上手くできていた男は途中で去って行ってしまう。彼の顛末についてだけナレーションを添えるというのもまた。そしてラストシーンでもそれが反復され、我々の脳裏に(おそらくジョーダンにも)あのダイナーでのひと時が思い浮かぶ。
ジョーダン・ベルフォートによるナレーションは、時には観客へ向けられ、嘘が混じり(冒頭にスポーツカーの色についていきなり語られるのだけれど、ここで、最初に違う情報を発したのはだれか? 考えるならば、この映画の製作陣に、ジョーダンが突っ込みを入れているような感じか)、感情が込められ、四方八方にとっちらかったようだ。そこに、他者の語りまで加わってくる。この過剰さ。
個人的には、ジョン・ファヴローが出てきたときはうれしかったし、スパイク・ジョーンズもびびった。なんだあの役は。すばらしい役者陣…最後まで地に足つかなすぎるジョナ・ヒル、笑顔のうさんくささ最高なジャン・デュジャルダン…そして、マシュー・マコノヒー!彼が演じる、ジョーダンの最初の上司(そしてウォール街での生き方を教えた、さながらメンターといった存在)が、「自殺」について言及するのは象徴的だと思った。この男は、ブラックマンデーの後、どうなったのだろうか。…。