デヴィッド・O・ラッセルアメリカン・ハッスル』見た。

スティーリー・ダン「Dirty work」が流れながら、スローモーションでのタイトル、ってのでがっしり心つかまれる。
ブラッドリー・クーパージェニファー・ローレンスは、『世界にひとつのプレイブック』でのキャラクターを明らかに受け継いだような、「精神的に不安定な」役柄だし(おまけにロバート・デ・ニーロも登場させあの一瞬で為される射殺シーンまでやらせる!)、クリスチャン・ベールエイミー・アダムスカップルは『ザ・ファイター』だし、キャスト的には今までの総決算感あるのだけれど…。発表された時からずっと気になってたんですけど、……いや、マーク・ウォールバーグは?ジェレミー・レナーの枠ちゃうんかい、と。…でもあの兄貴っぷりは、マークには無理か、といつも思うことを思う。どっちかっつーと、弟(か、次男)だもの。
この映画、クリスチャン・ベール演じるアーヴィング・ローゼンフェルドがはげ頭を整え、偽の毛髪によって「ふくらませる」身だしなみの整え方を、丁寧に描くことからスタートする。だがその「頭部」は、その後早々にFBI捜査官リッチーによって崩されてしまう。
装うこと、と、それが暴かれる(暴いてしまう)こと、が、繰り返しあらわれる。
その中で、すべてをあけっぴろげにする・語る、誰かの秘密を明らかにする(電話の盗み聞き)行為でかっさらっていくジェニファー・ローレンス演じるロザリン。「真似しちゃだめ、でもその通り」。歌いながら掃除のシーン、あれが白眉。
あと、カーマインが、アーヴィングに、「あの時、君が俺を連れ戻したんだ!」と責め立てるシーンは、なんというか、政治的だったりどろくさかったり戦略的だったり、そういったものがつきまとうあのプラザホテルのくだりを、ある1つの行為――それもとても「スイート」な――に集約させてしまっていて、すげぇ…と思ってしまった。
なんか、つまり、そういう映画、物語だ。ばれるかもしれない、緊迫感に満ちたはずのおとり捜査を、ダイジェストのごとくさらっと描くか、そもそも成立させなかったりして、その代わり、人間関係が充実していく、「甘さ」が満ちていく様子を見せる。
でもそれも、最終的な、決定的な事件、決断が起こるまでの間だ。嘘を告白したり、離婚を決断したり、そういった出来事によって、その関係は変容する。冒頭、アーヴィングがリッチーを、シドニーとの関係について問い詰めた時に、リッチーは、何もしていないし、腰に手をまわしたくらいだ(それはシドニーによって、「もっとやってる」と訂正が入るんだけど)と答える、というシーンがある。リッチーとシドニーは、愛情が本物に、「リアル」になるまでファックはしない、と約束しあっている。そして、最終的には、確かに「リアル」が突きつけられることになる。その結果はセックスではないんだけれども…。
チャンベ、この方面の「化け方」は、あんまりはまってなくね?顔がさぁ、整いすぎてて…文字通り甘い顔してるのがノイズになってる、この役では。

だってこんだけかっこいいんだぜ、この人。
われらのエイミー・アダムスは、露出多めの、腕と首の感じがどうも気になって…。
音楽の使い方、挿入される質感の異なる映像(監視カメラや再現され偽装されたニュース映像)、など、正直、まぁ、うん、って感じ。クオリティの物足りないさ、力の入ってなさを感じる。史実的なもの・ある時代ををリアリティを持って扱う、ということに、この映画は焦点をおいてないのでは?『ザ・ファイター』ではできてたから、わざとしてないんじゃないかと。
そして、はっきり言うと、カメラと、編集は、全然好みじゃなかった。あの寄りすぎの構図の連発はなえる。ディズコでのダンスとか、どうしたんだよ、って思う。動きの流れを切ってジャンプしまくる繋ぎ方もなぁ。まるで再現ドラマみたいな安っぽさととらえてしまうんだよな、なぜか。