今更ですが、2015年見た映画の残りをまとめます。


M・ナイト・シャマラン『ヴィジット』

シャマランの映画愛・フィクション/物語愛が溢れて、もはやそれでのみ作られている映画。
最後のベッカと祖母の対談(2台のカメラで切り替えしてるからこう呼ぶべきかと)で、ある実話を「物語」として扱うことである種の救い(エリクサー)を発生させる(しかもそれすらも「嘘」であるという…)。
あの弟からの問いかけ(しかしヒントはすでに示されていた!)の唐突さは、あれが「出演者」から「監督」への問いだからというのがしびれる。「ズームアップしてる?」も興奮すると同時に感動してしまう。そして、してない、という嘘を突き通す為に彼はカメラを動かさない。それは後に(編集時に!)ばれてしまう、あからさまな嘘、だがそれがベッカを彼女自身の「モチーフ」へ向かい合わせる。
鏡、潔癖症、アメフトでの失敗(棒立ち、できなかったタックル)というモチーフを、ど正面から解消するのを映画的に示し(物語と人物の運動)、しかもそれらが、すべての発端である過去=父の消失の乗り越え(対象化する)を使わなかったはずのフッテージを使うことで現れさせる。
対象化、というの、キーワードとして使いたい。エンドロールのラップで潔癖症を笑いにすることもそうだろう。というか、笑いの治癒的効果としての対象化にこの作品は貫かれてる。辛さや恐れを笑いにすることは、冷笑や蔑みではなく、ポジティブなアクションなんだということ。
弟の憧れであるタイラー・ザ・クリエイターもまた父を失ってる!そこまで考えてシャマランが使ってたとしたら愛しかないし素晴らしい。
シャマランの境界線上っぷりたるや…それはジャンル間でもあり、映画と観客でもある。
隠しカメラをベッカが映画を作る人間としての「倫理」(cinematic…何て言ってたっけ…)を持ち出してやめさせる(カメラは人が撮るべき!なんという原理主義)の最高すぎる。
タイラーが、同じ言動をカメラの前で繰り返す(OKテイクを使うということだ)、外で何かが起こったら必ずドアを開けようとする、それらが全て映画である(シャマランのヴィジットであり、ベッカのヴィジットである)からこその行為なのだ。
しかし今作を、シャマラン帰還!とかいうの腹立つな。エアベンダーアフター・アースもシャマランだったっつーのに(例え本人が否定しても)。
なぜなら、映画/フィクション/物語が人を動かし、精神を支え、問題を解決する。というの、シャマランは毎回やってる。しかもそれがすべて、そのまま、見たまんま、ストレート、に表現されている。
あの、その日の夜になる時、必ず空のカットをディゾルブで繋ぐのとか、毎日の終わりのタイミングとか、繰り返される"…MORNING"のテロップ、とかのセンスが絶妙すぎるんだよなぁ…猟銃のとことか、ちらっと見える外のアレとか、の、短いカットの入れ方とかこそシャマランだ。
演じることについての映画だった。繰り返される「主役」というワード、出演しないとごねる祖母、子供らしい行動をあえてするタイラー。


J・C・チャンダーアメリカン・ドリーマー 理想の代償』

ともなく画が異様にきまってる。シネスコの中に、低い建物がしっかりおさまる綺麗さ。ラストカットも高層ビル群は遠くに位置されてる。
オープニングがマーヴィン・ゲイのInner City Bluesなのもくそかっこいい。


グレゴリー・ジェイコブズ『マジック・マイクXXL

チャニングの、椅子に女の人を座らせつつ自分は倒立する動き、さらっとやってるように見せてたんだけど、どうなってるんですが。すごすぎじゃないですか。
ともかくスーパーマーケットのシーンが最高すぎる。あんなにバックストリートボーイズで感動したことない。かかった瞬間ぞわーっとしたもん。その前の車中での熱弁(フロリダで初の…ってやつ)もやばかったけど。
はっきり言って前作の物悲しさの方が好きなんだけどこっちはこっちでまた良い。よりベタな線をいってるのは間違ってない。BSBもそうだけど、序盤の作業場で90年代ヒップホップかかって踊り出しちゃうのとか。
やったか?やってないか?の露骨なやりとりもベッタベタではあるんだけど、この人たちは基本自分の為で無く女性の為に活動してるんだよなーと思うとまぁいいか、という感じになる。
夜のシーンが多く、砂浜のほぼ暗くなってるところでの長い会話とか、顔の見えなさに攻めてるなーと思った
ほんと、うまく言いづらい。最後の、みんなの得意分野を生かしたパフォーマンスの良い意味でのこっぱずかしさ!
ただ、やっぱソダーバーグ的引きの画が欲しい…とか思ってしまった。前作の海辺のデッキのシーンとか。
あとヒロインも、アンバー・ハードよりコディ・ホーンの方が良いだろう。
あとジョー・マンガニエロが主役かな…って正直言って思った。なんなのこの人は…最高なの?
今調べましたけどジョー・マンガニエロマット・ボマーが大学の学友ってまじなの?最高なの??
チャニングに何か言えることあるの?何もないよ、最高だよ。かわいすぎますよ、天使かよ
つまりよくわからん、冷静にまとめられない高揚があるけど、傑作なのかと言われると、うーん微妙という感じというか。


バルタザール・コルマウクルエベレスト 3D

エベレストなぁ…ちょっとなぁ…。まぁ、こういう題材で撮ったらこういう風になるよなーという想定どおりではある。
壮絶な状況からカットバックで繋げられる夜の寝室の静謐さ、ベッドに横たわるジャンに投げかけられるまだらな影、灯されるライト、に良さを感じた。
おもしろいのは、後半はほぼ、様々なところで「待機」する人々の映画になるというところか。圧倒的かつ非人称のものに関わり災いにあった人々のできることは受け身に・受動的になることでしかない…のだけど、そこからロビン・ライトの行為だけが際立つのだった。
史実だからあまり下手なこといえないけど、自身も登山家である(シェルパの名前も知ってる)ジャンと、おそらく山に興味のない(夫への愛情すらもしかすると薄れていたはずの)ピーチという二人の妻の対比。
あくまでこの映画では、だけど、山を知る者達が待つしかない(ジャンも電話越しで決して無理矢理な要求はしない)とするなかで、ピーチだけが無理を通そうとする短いシーン。
この映画ではっきり死の瞬間が描かれてる人物達が何人かいて、見てる間はその様子が(無論目撃者も同じ状況にさらされてるから一概に完璧ではないだろうけど)事実なんだと思うけど、結末を知ると、その認識が改まる、というのなかなか興味深い。
サム・ワーシントン出てきて、こいつ絶対頼りになる!と思ったけどそうはならないのが事実なんだなーという感じ。
お前ら何を好き好んでこんなひどい目にあいに行ってんだ…という映画を好き好んで見てるこっちにもブーメラン。
あと決して忘れてはならない、エリザベス・デビッキ。今年はナポレオンソロもあるし、キテます。
そしてジェイクによる無駄脱ぎ…。


ジョージ・クルーニーミケランジェロ・プロジェクト』

たった一つしかないもの、と、幾らでもあるもの。そのどちらに価値があるのか、もしくは、はっきりとどちらかに属すると示せるものはあるのか。
美術品はどうか。「平凡」な画家だったヒトラーはなぜピカソを燃やすよう命じたのか。勿論現代美術を忌み嫌っていたというのもあるけど、これらは"替えのきく"ものだったのか。ではさらになぜ、"ネロ指令"を出したのか。
人命はどうか。ジョージ・クルーニー演じるストークスは、人間はまた増える(ことができる)、という旨を述べる。しかしそれが、過去に失われた命の代替ではない。サムの口から放たれる、祖父の行き着いた先であるところの"Dachau"という恐るべき単語。
その、替えのきかないものの消失、への回答としての、「代行」(祖父の代わりにレンブラントを見つめるサム…それが自画像であるというのも示唆的だ/ストークスの代わりに記憶の継承を肯定する息子)があるんだな。
駅舎(?)に無数に集められた家具や食器(クレール曰くユダヤ人たちの日常)。樽の中にぎっしり詰められている金歯(その前段としての延べ棒)。これらは、本来ならば交換可能であるはずのものだが…。


サム・メンデス『007 スペクター』

詳しいことはアレなんですが、あの終盤の決着のつき方は…あきらかにハンカチをくわえて「キーッ!くやしい!」って言ってる顔だった。
アイアンマン3のマンダリン方式かなーと途中まで思ってたけど…うん…。
ジェームズ・ボンドという男の特性が招いたというか。あの女性と相対した時の輪郭が濃くなる感じ…。
めちゃ長いからサムメンデスのアートかよ…と思ってたけどアートじゃなかった。
まぁ事前に出てる記事で、原点回帰してるというような情報知ってたけど、やはりオープニングと曲であがってしまった。007、と聞くとイメージするものあって、それは網羅してる。
冒頭、これどうやって撮ってるんだよ…からの怒涛の疑似アレが展開され、疑似だけど興奮した。
ジョンウィックの"シルエットだけでわかるデフォーさん"に勝るとも劣らないヴァルツさんの輪郭力。
スペクターを出すと決まってからなんだろうけど、死者のモチーフをここまで盛り込みまくるのすごいな。死者の日、過去からのメッセージ、葬儀。それとさらに見る・監視("perspective")のモチーフもひきだしてる。
しかしボンドはん、やりたい放題だな…と思ってたけど見てるうちにこれは逆に拘束されてるなという気がしてきた。女と見たら抱くしかない、敵は殺すしかない、など。そう考えるとあのラストの決着(およびMによるボンド評)には意味がある。
印象的なのは、ボンドがスパイではなく殺し屋・人殺しであると自称し他称されることや、他者を殺すという明確な宣言が繰り返されるところ。
思えば前作の超絶美しいディーキンス先生の画があっての、今作のホイテマ、どうなんだという感じだったけど、舞台が前作の湿地帯・霧けぶる都市ではなく乾いた南、エキゾティック推しの土地だったのでそこにあわせての人選という気がした。まー異邦人的視線すね、という感じ。
異邦人的というか異国情緒ご紹介という感じか。
テーマ曲のモチーフの使い所、の良い意味での軽薄さ、薄っぺらさが良く、というか007はそもそもそうだよ、という改めての表明のような感じ。
ただ面白いのはQ開発のガジェットの使われ方。はっきり言って前作より不発(象徴的な1シーンがある)かつ「脱出」にのみ使用される(しかも一時的にすぎない)という表現で、Q自身もそういう特殊開発者というより分析官的な職務の方が強調されてる。
ただ格闘アクションのシーン、どうしてもひっかかる編集があった。手で蝋燭の入ったガラスを掴み投げつけるところ、明らかに一旦止まってる。これ普通投げる動きが始まってからの画で繋げるのが今の一般的な編集では?(その後もう1個、同じような「停止」を感じさせる所あり)格闘のところ劇伴もあまりないので、盛り上げる気が無いのかなとも思う。
劇伴のなさで言えば、カーチェイスの優雅さも気になった。なんだあのゆとり。狭い路地を走ってるはずなのにまるで車のCMような余裕っぷり。トム兄が見たら怒る(多分怒らない)。でももう1つの飛行機のシーンでの「挨拶」見て、あーこういうことかと理解した。
診療所の舞台を見ると、つくづくノーランに007撮らせてあげてほしいなと思う。インセプションであれだけラブコール送ってるんだから(逆にインセプションダークナイトやったんだからボンド欲は満足でしょ?という言い方もできるけど)。
ヴァルツさんがレアセドゥに「あんなに小さかったのに…」って言ってる時イングロ思い出して感慨深かったな。
んというか、ヴァルツさん関連で笑える所が多かった気が。あの秘書?を近寄らせてしゃべるとことか、合図送ったら明かりが落ちてみんな立つ(なんなんあれ)とか。


ガイ・リッチーコードネーム U.N.C.L.E.

これで続編やらないのマジで悲しくない??やってくれないとしぬ…。
イリヤの後ろでギャビーが踊るホテルの部屋のシーン、まじで可愛さ(もちろん2人の)が爆発しててにやにやしてしまった。
序盤のカーチェイスのシーンの感じがガイ・リッチー感満載。編集のテンポ、めちゃくちゃよかった。スプリットも普通にかっこよかったし。
画、動き、での見せ方・説明の良さ。時に大胆に省略し、かと思えばここ!?っていうシーンをじっくり見せたり。センスセンスセンスの怒涛のセンス押し。


J・J・エイブラムススター・ウォーズ/フォースの覚醒

カイロ・レン、かわいすぎ。そしてオスカー・アイザックの"BB-8!"って呼ぶ時の感じというか発音、めっちゃ気持ちよい。


F・ゲイリー・グレイ『ストレイト・アウタ・コンプトン』

極めて真っ当な青春映画、音楽映画。
保釈されたアンドレが、持ち物の袋から、抜かれた靴紐をとって、再び通す時に履いてる、真っ黒のコンバースオールスターがかっこいい。
アイス・キューブ、ドレー、イージー・Eが、それぞれ違うニューエラかぶってたのしびれた。
しかしやっぱり映画「としての」おもしろさ、というのがないとなーという。今作が最終的にしっくりこない理由。


ライアン・クーグラークリード チャンプを継ぐ男

すばらしい。ドニーがYouTubeをスクリーンに投影し父とロッキーの試合を見るシーン(しかも重ね合わせるのはロッキーの方!彼は父と闘っている)で泣き、バイクを引き連れてのランニングで泣き、リング上でフラッシュバックするアポロの姿に泣いた…。
試合のシーンでまるで原則のように使われるワンカットにも興奮したし、暗闇の使い方がうまい。ぬっ、と現れるドニーの艶やかな背中、終盤のコンランの入場シーンも外連味たっぷりかつ美しい。
なんというか、それ自体が何かに効果を与えたり、はっきり成果が見えたり、ということが無い行為というのがあって、それはおそらくエモーションの発露ということで、しかもそれは見返りを求めてなく、確証も根拠も目には見えないし、解決という概念からも遠い。
まずドニーの行動(YouTubeやウィリーするバイクとの疾走もそうだし、メキシコでの腕試しとかも)がそうだといえる。というかボクシングのトレーニング自体が当てはまるわけで、そういう行為が表出され、それに登場人物たちがうちこみ、挙句もしかするとある良さ・勝利・成果・未来を生み出してしまう(冷静に考えたら因果関係なんて超えてる)、ということに、猛烈に感動してしまう。
アドニス、ドニー、ジョンソン、son、kid、ジュニア、リトル、ベビー、チャンプ、そしてCREEDと、呼称の変化や違いですでに何かを顕わしてしまう。それは、ドニーが、皆が「あの」ロッキー・バルボアと呼ぶ男を、おじ、老人、呼ばわりするのと通ずる。それに呼応するようにロッキーも自身をただの老トレーナー(「壁」に貼られたpast、back)と自称する。
ドニー=マイケル・B・ジョーダンが、スタローンと相対する時にぽろっと流す、2015年の映画で最も美しい涙。
ドニーがフィラデルフィアに「入っていく」時に、ルーツとジョン・レジェンドのfireが流れて最高だなーと思った。総じて音楽が良い。vince staplesとかも使われてた。
今作のスタローンの、生と死の境目でゆらめきながらなおも闘志に満ちた導きを為そうとしている姿、凡百の俳優にはできないのでは。
ちなみに思いつきで、「留置」「拘置」という側面で映画を見ることはおもしろそうだ。例えばクリードも、冒頭に主人公が収監されるシーンから始まる。


さて…これでようやく2015年ベストがまとめられるかな…。