M・ナイト・シャマラン『スプリット』

それにしても、今回は、撮影が異様なことになっている。ファーストカットの不気味な緩やかさのあるドリーズーム、多用される人物の顔のクローズアップ…と考えた時に恐ろしい名前が浮かんだ…ヒ、ヒッチコ…やめておこう。

そして、なんといったらいいのか?多分、これまでのシャマラン作品とは違う感触・質感の映像のような気がするんだけど…見てる最中アレ?とずっと思っていて(特にカウンセリングのシーン)、でもそれをどう言ったらいいのか見当つかない。

めちゃくちゃ安直かつ曖昧な言い方(しか現時点ではできないの)だけど、おもしろいとかつまらないを強制的に一旦脇に置かされるようだ…(シャマランはいつもそうだよ、って言われればまぁそうっすね…という感じなんですが…今回はまたそれとは違うんだよな…)。真の意味で、これだけで何をどうこう言えないと(「これで終わりではない」と)思えてしまう。そして、そうであるがゆえに、この物語は終わりにあるシーンがあり、「これで終わりではない」のだ(同語反復)。その理由について考える。

シャマランが常に、フィクション/作り話/虚構が、現実/世界と奇怪な形で関係を結び「救済」(カッコ付きなのは、それが既存のそれにとどまらないこともあるから)する、ということを語ってきた作家であるとしてみる。

今作のフィクションとは、主人公の一人である、ジェームズ・マカヴォイ演じる男の身に起こっている「多重人格」という現象(とあえて言う)と、彼が引き起こす事件に巣食う論理(なぜ少女たちは拉致監禁されたのか?)だ。それは決して、嘘偽りである、ということではなく、男が自身の治癒のために作り上げたストーリーである、という意味において。

そして、今作で、現実/世界として現れるものは、終盤まで隠蔽されている(ということを、我々はそれが現れてから知ることになる)。

それはまず、ある過去・事実が、アニャ・テイラー=ジョイ演じる少女に残した「徴」だ。それは、解釈が一切不要でありまた不可能な、みたままのもの、そのもの、でしかない。

それからもう1つ、物語の主要な舞台となるある場所だ(しかし、それにしてもシャマランの舞台設定のセンス――どんな場所でストーリーが紡がれるのか?――はやはり尋常じゃないかつ奇妙すぎるということを改めて認識できた)。その場所が、監禁が行われた空間の"正体"であり、その外部を覆い尽くす"世界"である。

では、同監督の他作品同様、圧倒的な強度を持ってしまうフィクションによって、他者たる現実が浸食される様子が描かれることになるだろうか。

確かに、そう思えるようにストーリーは進行する(偽装されている、と言ってもいい)。

だが、驚くべきことに、終盤の展開で、姿を現す事実/現実/世界が、(歪んだ形で)勝利を収めてしまうように見てとれる。

それは、少女の持つ「徴」と、虚構にその身を変容させられる男との対峙の、一先ずの結末がまず示している。

その後の少女の前には、自らに「徴」を刻んだ存在(彼女が内包されてしまっている現実世界であり過去)が登場してしまうことが暗示される(劇中の、回想で語られるある挿話――嘘はばれ、救いにはならない――も思い出したい)。

さらに、明らかになる、物語の舞台である場所の性質/特性/状況が、そこを起点としていた全ての出来事(監禁や、暴力の振るわれ方の造形描写)や要素("檻"や"鍵")の、上位概念である「元ネタ」と解釈できてしまう。

もしかすると、男の身に起こるある(生成)変化の「モデル」ですら、そうなのではないかと思えてしまう。

こうして考えていくと、最終的には徹底して、現実世界が優位に立ってしまっている。

そして、それで終わりなのか?という問いが立ち現れる。今作に、あの、虚構が現実との境目を侵犯し融解してしまうような「救済」は無いのか?

シャマランが、映画作家として培ったものは、それに対しての回答として、ある衝撃的なカットを付け加えるだろう。それは…言ってしまえば、「救済」の象徴だ。それが、無論「終われない」のだ、と示している。

以下は、追記として。
実は、少女の「徴」と男の「虚構」は、両者とも"傷"、スティグマと称されてしまう類のものとして、相通じている。
それは同じもので、2人の人物の上に、まるで本来は一つのものが両者にまたがって、それぞれの上に形を変えて姿を表しているように錯覚すらしてしまう。
脱線するが、その「錯覚」が、(カットバックという手法と相まって)作劇上のトリックでありtwistになるという「下品」な発想をしてしまって反省している(「本当に"on the move"するのは何者か?」なんて、考えてしまったので)。
自戒を込めて言うが(毎回言ってるけど)、これだけファンだと自称してるにも関わらず、毎回、シャマラン作品が"そのまま"であること、"見たまんま"であること、を忘れてしまって("何かある"と思ってしまって)、見終わってそのことに気づくのだ…。