"American Penis Story"、または"Oppen-is-heimer"(クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』)


冒頭のエピグラフ、大抵こういうものって既存の文学作品からの引用が定番かと思うのですが、著者名の記載が無かったんですよね。それってつまり、ノーランが自分で書いた文章ってことなのか?と。
そして、この手の実録物にはほぼ欠かさずある、本編最後に黒バック白文字で、劇中の実在の人物の、映画の時系列のその後を語る文章も、潔いまでに全く無かった。
この、映画の前後の言葉にまつわる状況に象徴されるのは、今作における、他者の言葉の無さ。全てがノーランの言葉であり、その言葉で完結しているような感じ。

そして今作は、ノーランが映画作りについてめちゃくちゃに本気出して考えてみた、その答え合わせみたいな映画だと言える。
どういうことかと言えば、現状において、ノーランの映画作りって、もはや尋常じゃない巨大なプロジェクトと化しており、それって、現実に行われている、膨大な資金と人材が必要で、時間制限があり、人間の生死に関わるような大規模な計画、または戦争それ自体と相似をなしてるじゃん!みたいなことだ。『映画は戦場だ!』(サミュエル・フラー)。もちろんそんなことはとっくに気づいているだろうけど、その気づきの果て、極北にまで行ききってしまったと思えるくらいのあからさまさと多重性(例えば、まるでオープンセットのようでもあるが、完全な虚構ではなく現実に作られたロスアラモス)に満ちた今作は、そういう意味において、ノーランの最高傑作と言いたくなりもする。

そんな作品の中で繰り広げられるのは、白人のパワーエリート男性たちが、ブラインドを下げ遮蔽した秘匿空間で、徹底的に論じ合い、影響を与え合い、探り合い、勘ぐり合い、揚げ足の取り合い、いがみ合い、小馬鹿にし合うだけの……一体、なんなのだろうか。同じ場面が繰り返され、または似通った同じ場面がひたすら続く、終わることのない、会議のような、集会のような、裁判のような、それら全てであって、全てでない、何か。

では、それ(ら)は何なのか。というか、ここまで書いてきたことでわたしは何を示したいのか。

キティが幻視する(と、一先ず言うしかない)、裸でジーン・タトロックと抱き合うロバート、を演じるキリアン・マーフィーの股間、は一応暗くなってはいたが、何かが見えたような気がした。それは、キリアンのキンタマだ(「キリアンのキンタマ」って書きたいだけ)。なにをもったいぶって書いてるんだと自分を戒めつつ、このキンタマが天啓となって、不適切、いや不謹慎な発想が出てくる。

このtwo ballsは、two bombsであるということだ。Little BoyとFat Manというtwo bombs。
じゃあ(one)stickは?となると、トリニティの実験塔、がまさにそれだろう。

つまり、このブログのタイトルに書いたものを略してーー偶然にも、オッペンハイマーが会長になったこともあるAmerican Physical Society (アメリ物理学会)と同じ略になるがーーこの映画は"APS"であるということです。

ある1人の映画作家による強烈で巨大な支配、がなされているがゆえに「最高傑作」である、というその価値観自体も、結局のところ同じ群れの「チーム友達」である男同士の延々と続く鍔迫り合い、よりむしろ、そんなものが存在するのかという話だが、ヘテロ的な兜合わせ、つまりプロメテウス(たち)の、神々の遊び、など、の強い閉鎖性のすべてが……なんというか、「ペニセスト」であるとしか言いようがない……そう思えばなんだか『えの素』みたいな、榎本俊二作品みたいにも思えてくる(?)。

その果てに、誰にも与えず自分(たち)だけが快感を得て、射精し、強い光によって起こる画面の白飛びがごとく、テラーが顔に塗りたくる白い日焼け止めのごとく、静液を撒き散らす。
もちろん、精液が無責任に、連鎖的に生成されることはなく、終わらないのは男たちの勃起と射精だ。地球の表面を覆い尽くし、大量の死を齎すスペルマ。

そして、キティから、もっと怒張させなさいよ!妻じゃない女に挿れてる場合じゃねーだろ!という説教をされても、オッピーはすでに射精してしまっているので、もう硬くならないのだった。みたいなオチ?

ところでアカデミー賞の壇上におけるロバート・ダウニー・Jr.の一連のアクションは、『オッペンハイマー』のシークエル、もしくはリメイクだったのだろうか。または手の込んだ宣伝行為?