クリストファー・ノーラン『ダンケルク』


エンドロール、SPECIAL THANKSに"SIR MICHAEL CAINE"とあった。


戦争映画を見て、戦争映画の体験を身体に刻みつけた子どもによる、その傷を刻んだものを再現しようとした試みのように感じた。様々な要素が断片的なままで、画や音として観客に襲い掛かり、緊張させ、傷つけ、過ぎ去っていく。
ペンフィールドホムンクルスみたく、かつて戦争映画によって傷ついた子どもに、そして現代の観客に、強く痛みや衝撃を感じさせる・強く傷つける箇所が、映画の中で突出して・飛び出していて(凸凹としていて)、そのままで作品が完成させられている。
そして結果として、あのホムンクルスのモデルのようなグロテスクな全体像を持つ作品となっている(均整がとれていない…そもそも映画/戦争が均整をとることなどあり得ないけどね)。
ただ、終盤の民間船集結+ケネス・ブラナーのイイ顔+記号的"勇壮さ"の音楽、が、いや明らかにそんな映画じゃなかったでしょ!ってちょっと弛緩したように思えた。


序盤の担架を運ぶシーンや、キリアンの船に引き上げられるシーンなど、人物の途中の動きが省かれるようなカットのつなぎ、ノーランの"「えっ?もういる!」"と名付けた(『ダークナイト』のトゥーフェイスがマフィアの車に乗り込んでるシーンなどそう)。
かと思えばスピットファイアの着水や不時着、船の転覆などは、きっちり動き出しから結末まで映像におさえてるのだった(途中に別のカットを入れたりはしてるけど、基本は決定的動きを外してない)。
その違いは何か?とあえて言えば、人間だけの運動か、"戦争機械"の運動か、の違いかもしれない。ノーランは、"機械"の動きはしっかり見せたいんだ。対して人間は、もうすでに動き終わった(死んだ)姿を見せたい。


(やっぱフェアアイル柄は良いな)

あと、テレビブロスのノーランインタビューで『ダンケルク』の参考にした作品として『エイリアン』『アンストッパブル』を挙げてておいおいおいおい…となった。