ジム・ジャームッシュ『パターソン』


めっちゃ最高。これこれ〜って思いながら見てた。ほんと比べたくないけど、これがほんとの(なにが「ほんとの」なんだ?っていう感じですけども)『ベイビー・ドライバー』だよ。



(映画を見るシーンのある映画は良い映画!)


冒頭、ベッドからむくりと起き上がったアダム・ドライバーの身体の大きさ(によって寝室がやたらと小さく見える感じ)にまず嬉しくなってしまった。彼自身の出自も関わると思しきキャラクターの設定とか(バーでの「制圧」シーンの、確かにそこまで完璧ではないにしろ"ある程度"はスムーズに事を終えるという描写と、軍服の写真)、どこにいても窮屈な、その場にそぐわない、居づらいように見えてしまうという……本当にこの人はおもしろい。どこにでもいそうで、いなさそう。不思議でなさそうで、不思議な男。


この作品について、一つ考えてるのは、映画で(映像で、シナリオで、登場人物で)韻を踏む、ってこと。
一週間の中の一日のルーティン(朝の支度と仕事)、フリースタイルラップ、何組もの双子、同じフレーズを違う人たちが口にすること、違う人たちが同じエピソードを喋ること、2人1組(ロミオとジュリエットアボットコステロ)という存在、他者の詩を朗読すること、「パターソンのパターソン」、「ドライバーのドライバー」、いくつも描かれる○の形と量産されるクッキー、などなど。
そしてさらに、誰かが言ってたんですが、『パターソン』という作品自体が、『リミッツ・オブ・コントロール』と双生児的であるという。マッチ箱、繰り返される同じやりとり(会話とメニュー)や構図(ベッドで眠る男女)、"driver"(!)……。


これらが導入されることによって、この映画は、同じことの繰り返しと、しかし全く同じことが繰り返されることはないという、その2つの事象の間で揺らぎ続けている。同じようで、同じでない。同じでないようで、同じである。


そして終盤で起こる詩の原稿のある事件。
あれは、ただのナイーヴな喪失の経験の描写じゃない(もう一度やり直せる、ってことでもない)。あそこで、"複製"や"繰り返し"が断ち切られ、逆説的に劇中全ての"複製"や"繰り返し"が照射されることに驚きがある。
いや、驚きというか気づきというか。あの出来事が、それ自体で何かを示すというより、作品全体の見方をガラッと変える役割を果たしてると思う。本来なら繰り返すことができた(複製されるはずだった)ものが失われることで、繰り返すことそれ自体が浮かび上がる。
あそこで、例えば奥さんが「ごめん勝手にコピーしてた…」とか、主人公が実はしれっとコピーしててでも本物が無くなったのであればってことで複製も処分しちゃうとか、色々パターンは考えられるんだけど、そのどれもやらずにああしたことの意味。

ちょうど読んでいたナボコフ『青白い炎』の《しかしすぐさま思いあたった、これこそが/真の核心であり、対位法的なテーマなのだということが。/まさにこれなのだ。テクストではなく構成(テクスチャー)なのだ。夢ではなく/あべこべの偶然の一致なのだ、》とという部分、これを読んで今作を思い出したし、これに対する富士川義之先生の解説の《(…)永遠の生とは何かという問いへの解答は、単一の、統一的な象徴のうちにあるのではなく、「対位法的なテーマ」のうちにこそ存在するのであり、「テクストではなく構成(テクスチャー)」のうちにある(…)》(p580)というのも、今作の事を説明しているなと思った。「構成」によって「世界」を表す、ということ。