ジョン・ワッツ『スパイダーマン:ホームカミング』



今までのマーベル作品では、映画内で起こる事件について、「そのトラブルおめーのせいだろ!」と思う、所謂自家中毒状態がだんだん増えていってる感があったけど(主に社長関連で)、今作はそういう展開に対して、一応納得できる形で落とし前つけてる。
ではその形ってなんですか?と問われれば、ズバリ「子ども」ってことです。「子どもだからこういう行動を起こすよね(だから大変なことになっちゃうのもしょうがないよね)」的な。

今作の大人たちは、そうした子どもとしてのスパイダーマン=ピーターに対して、(ジョン・ワッツの前作『COP CAR/コップ・カー』と同様)脅し、宥めすかして、どうにか懐柔しようとする。だが、ピーターは言うことを聞かないだろう(大人に従う子どもは子どもじゃない、と言わんばかりに)。そして事件はさらに進展していく、というわけだ。そしてこれを、「乗り物」というモチーフからさらにはっきり見てとれると思うので考えてみた。


ところで今作は、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でのスパイダーマン初登場の「別角度」からのシーンで始まる。そこで最初に描かれるのは、ピーターがハッピーに連れられ、(おそらくトニーの)プライベートジェットに乗り込み移動する様子だ(「(プライベートジェットに)乗ったことないのか?」とハッピーが問いかけることで、はしゃぐピーターの"子ども性"、"childness"が強調される)。

そしてこの後も、ピーターが、(自分で操作しない)様々な移動手段に乗る行為が繰り返し現れる。

(この点を、サム・ライミ版スパイバーマンのピーターが、バイクを運転していたことを思い出し比較したくなる)

スーツと「教え」の譲与が行われることになるトニーの車、見ていて気持ちの良い横移動のカットでピーターの通う高校の最寄り駅に到着する電車(その後、今度はスパイダーマンとしても「乗る」)、学力コンテストの全国大会会場であるワシントンへ向かうバス(子どもたちにとって、自分たちの力だけで行くことのできない場所へ辿りつくための手段としての役割を果たす)、運転者不在としての(むしろ不在であるがゆえに純粋に、後述の2つの意志が、一方がもう一方を包みこむ・懐柔するのではなく、ぶつかりあう戦いの舞台となる)トラックやフェリーや輸送飛行機、変則的な「乗り物」としてのエレベーター、子どもたちをしかるべき場所に送り届けるメイおばさんの車、今作の白眉たる緊張感に満ちた会話が行われることになるトゥームスの車……。

(今作を、ピーターが様々な乗り物を乗りついでいく映画、と見ることもできるのではないかと思う)

では、今作における乗り物、"vehicle"はどういった存在か。
それは、自分の行きたい場所に向かうために、自分の決断で乗り込むものだ。そして自分ではなく、他者が運転するもの、自分を運んでくれるもの、でもある。
つまり、自分=子ども=ピーターと、彼を思うがままにしようとする他者=大人たち(≒運転者)の、2つの意志が、入り混じる物体/空間である。

(映画における乗り物は、運動体であり、移動空間でもある、という2つの特性を持つ、と考えると面白いなと思う。運動の主体はピーター、移動の主体は大人たち、ということだろうか)

ピーターと彼を乗せる乗り物の関係は、まず子どもがそもそも、「運ばれる」しかない、無力な存在であるということを端的に示している。
だがしかし、ピーターは決して、乗り物の中で(「車中」で)、「説得」には応じないし、自分の意志を曲げることはない。言うことを聞かず、常に、自分の判断で、自由に動き回ることを選ぶのだ。スパイダーマンであることがそうさせる、それが"スパイダーマン性"であると言わんばかりに。

いや、もっと言ってしまえば今作は、何度も説き伏せられそうになろうとも、自分の信念を貫く運動をし続けること、大人の与える試練・課題に子どもが耐え(個人的には今作の大人たちは子どもを「見守る」存在、と一概に言いきれないんじゃないのと思ってる。そういった意味で『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は子どものために大人が命をかける話で、今作は大人のために・大人のせいで子どもが命をかける話なのではないかなと)、それを「乗り越え」ること、そしてその上で、大人の意志で「移動」せず、ある場所に「留まる」(家の中でせわしなく動き回る蜘蛛のように?)ことを選ぶ物語、と言えると思った。

その点で、映画にとって至極当然に正統なモチーフたる、Rideするものとしての乗り物を、子どもという存在を軸にすることで、よりによって徹底的に自ら動くことをその主たる性質とするスパイダーマンの映画において、うまく扱えていたんじゃないかなと(偉そうに申し訳ない)。

最後に、触れていないある1シーンについて。『COP CAR/コップ・カー』よろしくピーターだけで乗り物を操作する描写があるんだけれど、例によってまあ、うまくいかないわけで。その乗り物はまず、自分のものではない、というのもあるんじゃないかとも思う(関係ないが、長嶋有が、007の映画評で、ボンドが民間人のバイクを借りた――というか奪った――ことが映画の中で解決されてない、と言ってたけどこの場合はどう言うのかな)。となると次回作では、今度はピーターが自分の判断で移動するようになるその一歩(いうなれば、自分の車でアクセルを踏む)を描くのかな……。


あと、最後の図書室の机をみんなで囲むシーンでゆっくりカメラが後ろに動いて全体が見える(ちゃんとみんな位置をずらしてる)画、が抜群に好きだったのと、エンドのラモーンズは最高すぎましたね。