エドガー・ライト『ベイビー・ドライバー』


劇中、クラシックな装いでオープンカーにもたれかかるヒロインのデボラの姿が、モノクロの映像として挿入される。
この、『ブルース・ブラザーズ』の引用の1シーンは、主人公ベイビーが思い描く理想の象徴であり、妄想だ。

過去の映画、過去の音楽に思いを馳せ、恋い焦がれ、そこに理想を投影し、それをそのままの形で指針として思考し、行動する、というのは、この映画の制作の姿勢にも通ずるものがあるかなと。

つまり今作は、ハイストムービーの、そして何よりアメリカ映画の比喩のような作品だと思う。


冒頭、赤いスバルがギュンギュン駆け回ってる姿がもたらす快楽ったら尋常じゃなく、最早性的ですらあるわけで(言いすぎ)。そこには、ハイストムービーのスピーディーさが文字通り形として現れている。

では、その結末はどうか。


ここで比較したいのは、ニコラス・ウィンディング・レフン『ドライヴ』。


ちなみにもう一つ思いだしたのは『ダークナイト』。


この3つを比べてみる。『ドライヴ』は、ドライバーのテクニックによって逃げ切ることができた様子が、十分すぎるほどの単純さで描かれているし、『ダークナイト』のスクールバスを用いた逃走も、あるキャラクターの狡猾さや計画性の高さを描き出す効果を、シンプルだけど上げていると思う。
(別にこの2作がすごい、というわけではなく、この2つの、車を用いた「逃走」という行為を描くことが、映画内でそれぞれ示すべきものを示すという役割を果たしているってだけだ)

――この赤い2台の車の出現が、計画通りだったのか?がよくわからない。もしかしたらそういうセリフを見逃しているかもしれないので自信は無いけれど。そしてもし計画のうちなのだとしたら、このシーンの意味合いが変わってくる。例えば、ベイビーの凄さというより、彼が所詮ドク=大人の手のうちでしか動けていないということを示すとか。それならそれで意味はある――

ともかく。

今作冒頭のこのカーチェイスの、オチになる部分が、「幸運」である、と見てとれる。
もちろん、そうした設定自体が悪いわけではなく、ただ、ラッキーだったらラッキーで人物なりなんなりにしかるべき描写が必要だとは思う(幸運を寿ぐ様子とか)。しかしそれも無いように見受けられる。

これは一体どういうことなのか、と疑問がうかぶ。
この偶然と、ベイビーの超絶ドライビングテクニックには、何の関わりがあるのか(あてどなく逃げ回ってれば、運が向いてくる、ということか?)。



それともう1点。
劇中で重要なアイテムとして登場する、ベイビーが作る音楽を収録したカセットテープ。これが、まんをじして、謂わば物語の舞台の"中心"に持ち込まれるくだり。ここがむちゃくちゃ気になってしまった。

テープの存在が露わになるのは、ベイビー以外の登場人物の手による。
ここが、他のシーンと時間の流れ方、人物の動き方が変わるように感じた。

それはなぜか。ここだけ、主人公の意識の外で、かつ、主人公以外の人物の運動によって、"輸送"が行われるからなんじゃないか、と思う。

ベイビーを一時的に蚊帳の外にしたことで、当たり前だけれど彼の「スピード」感が欠如した、停滞したような質感が生まれている。

じゃあなぜ、このシーンだけ、なのか。


そして最後。

ベイビーの、音楽を聴かなければならないという習性の由縁を、数多のアメリカ映画同様の、ヒーローが抱える過去のトラウマとすることは別段間違ってない……と信じたい。

もちろん、それはあくまで、過去が現在の時間の中に現わす姿、一つの象徴だから、ヒーローにとっては、本当ならば非現実である(真実ではない)……だろう。

となると、いかにそのトラウマ=過去を乗り越えるか、が、大きなテーマの一つとなるに値するのは間違いない……はず。

では今作では、それがどう解かれるのか。

終盤の、あるたった1カット。自分の解釈が正しければ、それはほとんど上述のような流れとは関係のない、ただの「解決」、言葉通りただの「治療」だ。これは多分、驚くべきことだ。ほんの少しだけ、ゼメキスの『フライト』の終盤を思い出させもする、それだけに、余計に疑問に感じてしまった。



と、以上挙げた、気になるところ3点を、結び付けるもの(なんてあるのか)を考えてみる。


おそらくこういうことだ。
まず、見せたい画、やりたいことがある。過去の映画の、1枚の画(この場合、決して一連の動きではなく、静止したビジュアルなんだろう)。
それを、現代で作る映画の中で、再現したい。
そして、その画へ辿りつけるようなストーリーや演出として、最短の、フラットで、シンプルで、「簡単」な方法がとられている。
さらに、その画を先へ繋げる次の展開も、同じような意識で(「簡単に思いついたから」)、作られている。
例えば、耳鳴りが止まないという設定と、それを消すためにiPodで音楽をずっと聴いてるという設定、の2つが、完全に後者→前者で編み出したものっぽいと思えてしまう。この場合重点置かれてるのは後者の設定、っつーか後者の「画」だ。

だからそこには、隠しきれないある種の緩さが見てとれるんだと思う。それは出鱈目さ、突拍子もなさ、破綻とは違う。この映画はむちゃくちゃになっていない。そして同時に、非現実さを成立させてしまう、針の穴を通すような精度の高さ、アイデアの豊富さもない。

そのようにして示すことができるのは、過去の表層の画だ。平たくて高低差がなくのっぺりとしている。

ハイストムービーの、スピーディーさ、スタイリッシュさ、スマートさの、あくまでビジュアルの再現に集中しているし、ダイナーやガスステーションやピザショップやコインランドリーや廃屋や廃工場や駐車場は、(自分なりの言い方になってしまいますが)アメリカ映画では、どこにどのように位置しているか(それぞれの空間同士、そこにいる人間との関係)を含めて豊かに見せる「場所」なんだけど、本作では個々に存在して人物の背景になる「場」(書き割り…はちょっと言いすぎですね)として現れていて(武器取引のシーンとか、決して優れてはいないけど『フリー・ファイヤー』の方を支持したいなと個人的には思ってる)、さらに、ジョン・バーンサルジェイミー・フォックスが演じてるような登場人物たちの「瞬発」的な描かれ方を見てると、かつて存在してたその手の男たちが、エドガー・ライトにはそんな風に見えてたのかよ!?と思ってしまうようなショックを感じたり、カセットテープ、iPod、テープレコーダー、レコード、ジュークボックス、カーラジオ、といった要素が、登場する場面場面において、要所要所で魅力あるように描かれているから、例えば「亡き母の歌声」と「ガールフレンドの歌声」、「手話」と「ダンス」は繋がっていないじゃないか(本来なら――ってこの「本来」がどれほど価値があるのかはもうわからないけれど――繋がってしかるべきなんじゃないですかね……)、と思ったりしたのだった。



あとこれは余談ですが、某感想読んだけどてんでポンコツな内容だったな。"BE MOVED"いつも出てるし、なんだったら映画は常にMOVEDしてるじゃん。そういう意味で賞賛するならいいけど、これだけに通用するような口ぶりはださいにもほどあるかな……。