ロバート・レッドフォード『ランナウェイ/逃亡者』見た。

普段はあまりそういうことは思わないのだけれど、この作品に関しては、“The Company You Keep”という原題がふさわしい。

終盤のシーン。水上をゆく1艘のヨット。そこはある女性がたった一人で乗っている。引きの画と、彼女のバストショットのカットバック。最後、ヨットが静かにUターンし、元来た場所へと戻っていく。…。
言葉も、人物の動作もなく、この画だけで、彼女が、ある重要な決断をくだしたことが表現される。すばらしい演出だと思う。

中盤で、ロバート・レッドフォードリチャード・ジェンキンスが会話するギャラリーに展示されていたのは、石内都の作品だった。

広島の被爆遺品。この写真の前で、2人の男が、過去の闘争と過ち、について語り合う。

シャイア・ラブーフ演じる新聞記者の衣装。何度も引き合いに出して申し訳ないのだけれど、『凶悪』について言いたかったことがこれだ。

ジャケットのボタンホールに眼鏡をひっかけている(眼鏡とサングラスの表象――シャイアもレッドフォードもそれらを作中で用いる――について考えてみたくもなる)。
別にアメリカナイズドされた格好をしろ、と言ってるわけじゃないけれど、衣装・小道具によって人物造形をする(「一発」で観客に「わからせる」)ことの重要性。リチャード・ジェンキンス演じる大学教授のシャツとニットタイとコーデュロイジャケット(下はデニムか?)のらしさ(学生に人気のある講義をするのだろう)、レッドフォードがクローゼットから引っ張り出して、逃亡中身に着ける着古したレザージャケット(彼は最後の逃走ではこれを着ていない!)、ニック・ノルティの羽織る大ぶりのチェックシャツとハンチング(いかにも、「脛に傷持つ」労働者――「親分」のような――)。
そして、ジュリー・クリスティ演じる、レッドフォード=ニックのかつての恋人にして過激派闘士、の女性の、ヨットの上での全身黒ずくめの服装が、彼女を評するニックの「壁を作っている」という言葉にふさわしい。海の上で孤立している。

ニック・スローンの娘が、まだ11歳である、ということは、彼が長年の逃亡生活に抱えている逡巡を表している(娘がいるのか、とジェドに驚かれるシーンを思い出したい)。

複数の名を持つこと。それによって、過去から断絶、したかのように見えて実はかえって継続していること(闘争=逃走はまだ終わっていない)。まるで投獄されているかのような30年間だったと述べる、自首したシャロンスーザン・サランドン。横顔が美しい)に対して、「高い壁」と6つの(7つの)アイデンティティで逃げ続けるミミはしかし、ある目的を果たすために、ある場所へ立ち寄らずにはいられない…それは、劇中の言葉を借りれば「重荷」だ。彼らは一人としてその重荷を下ろすことなどできていない(たとえ森の中でリュックを捨て去ろうとも…)。


酒井隆史『暴力の哲学』とフアン・ルルフォ『燃える平原』買って、久方ぶりの天一食べ、ダニー・ボイル『トランス』見た。


見終わって一言、バカ映画だな!という感じ。4人のギャングが一斉に催眠療法を受けることになるくだり(こうして文章にしても至極ばかばかしいのだけれど)とか。あと、作中の、ロザリオ・ドーソンにかけられたある「ぼかし」、は明らかに物語の根幹の一つに関わっていて(その内容も、いっちゃあなんだが、…どうしようもない)、言葉でのはっきりとした説明も、その瞬間にはないのだが――まぁわかるんだけど――でも、そういう部分を、重要な箇所にしてしまう、というのはわざとだろう。
一度目のセックスのシーンでは、あまり、というかほぼ映さなかった彼女の身体を、このぼかしのシーンではさらっと全身を露わにしてしまっている。そのあっけらかんとした見せ方は、ラストの、ある女の、蛆のわいた腐乱死体を、作劇上は必要ないのに(なぜなら、その瞬間より前に、断片を見せてるから!)改めてカットを割って真正面から映してしまうところに通ずる(対して、作中のギャングの男たちの銃殺シーンは、「妄想」でも「現実」でも、構図のとり方、カメラワークなどで、戯画的な隠され方をしている)。
本来ならば隠蔽される女性の身体を顕かにする、というイメージは、主人公サイモンが、恋人に、裸婦画についての持論を述べるシーンでも提示されている。
にしても、途中の、ロザリオ・ドーソンヴァンサン・カッセルのラブシーン、やたらと丁寧に描いていて(セリフまわしとかの演出)、妙だなーと思っていたら、まさかあんな結末だったとは…。言ってみたら『インセプション』のような結末なはずなんだけど、ヴァンサンがちょっとはにかみながらある行為について逡巡する、という変な「軽さ」のある終わり方。
この終盤の展開の馬鹿さ加減! 映画的なお約束――こうなったらこいつが死ぬだろう、というわかりやすさ――を利用している。いや、そんな言い方ではレベルが高すぎる…もっと程度の低い…悪乗りしている、という感じか。言っておくけれど、けなしているつもりはなくて、普通そういうことやる!?っていう驚きがあった。
おまけに、ロザリオ・ドーソン演じる催眠療法士によって、真相が、口で、語られてしまい、それは回想の映像を伴う、という、いっちゃあなんだけれど、テレビドラマのような演出、オープニングの、ナレーションと、細かく繋がれたカット、からのど正面な映像モチーフが使われたTOMATO作のタイトル、とか、とにかく映像の構図が再現ドラマっぽい、とかの、フィルムっぽくなさ、だささ、映画っぽくなさ、を、なぜか妙に愛したくなるのも事実で。
肩入れして深読みするならば…。
この映画は、男どもは、意識が途切れる(途切れさせられる)ことによって、みずからのよって立つ過去や記憶を不確かなものにさせられ、「ばらばら」になる(ジェームズ・マカヴォイは言わずもがな、ヴァンサンもラストにはそういう立場に置かれる)。
しかもそれは、被害・暴力・収奪を受ける、受容者から、操作者への転換による復讐を目論む女によって為される。
女性を、モデルとして、その身体イメージを(激しい表現をすれば)奪い、創作される絵画、は、「オークション」という仕組みや、それに対する「度胸」「気合」で行われる強引な強奪・強盗、西欧中心主義的な論理でまわりまわって、高価値が付けられる。そのルールの上で、ではなく、そこから逸脱したやり方で、再び奪い返す、ということ(「BRING IT TO ME」というメッセージ、絵のない額、女性(の死体)とともに隠された絵画)。
ガラスや鏡によって、乱反射し複数になる人物の姿、というモチーフも感慨深い。反して、ipadの、階層はあれど、イメージをひとまとめにする唯一の画面。