また調子悪くなって、鬱々としたあと、のっそり起きだして有楽町に行き、ブライアン・デ・パルマ『パッション』を見た。

これが、存外『トランス』に似ていて(ヨーロッパが舞台、異なる言語の響き――マカヴォイのスコティッシュ・アクセントしびれた――、昏倒による意識の分断と事実・記憶の「意図的な」混乱)同時代性感じたのだけれど、デ・パルマの方が圧倒的に映画だ。
冒頭の、2人の女性のショット、そこから動きが分かれて、2人をカットバック、でタイトルのカット、というのを見るだけで、映画だなぁと思う。
そして『トランス』同様この作品も、ある人物の語りと回想映像によって、真実を観客に提示する、推理物、探偵物、の変奏なのだけれど、そこはさすがのデ・パルマ一筋縄ではいかず、スマートフォンにより録画された過去の映像によって回想を語らせる(一応、スマホのCMにまつわるエピソードで、軽く伏線もはっている)その「ゆるぎなさ」、と、いるはずのない双子と緑のハイヒール、刑事の謝罪訪問、等々といった、乱れ撃たれる、時系列と事実の「不安定さ」、を同時に表現する。
言わずもがな、の、レイチェル・マクアダムス=クリスティーンの洋服、口紅、ノオミ・ラパス=イザベルが履かされるハイヒール、横領の証拠となるファイル、壁に貼られたクリスティーンへのメッセージが書かれたメモ、そして当然のごとくの血、血痕のついたスカーフ、ドアの前に置かれる薔薇、という、終りまでシーンを繋いでいく赤のイメージ。
…こんなのはお手の物なんだろうな、という気もする。指摘するのもはずかしいけれど、一応。
連関イメージと言えば、イザベルが、結果的にクリスティーンの恋人のダークの持ち物を身につけて殺人を犯すのだけど、しかしそれはクリスティーンの「息のかかった」物品である、というのがおもしろい…悪意・憎悪がブーメランのように持ち主の元へ戻ってくるイメージ。
アップルのロゴをこれでもかと映してたの笑った。パナソニックのCMとかも。
字幕、級数が小さくてテレビみたいだと思ったし、単語のセンスがあまりよくない(「イケてる」)。
いやほんと、おもしろいんだけど、あからさまに複雑に作られているので読み解く体力が必要や…。


今年、絵画出て来る映画多くないか。『コズモポリス』とか。


黒沢清最新作、『Seventh Code』、やべぇ!!

あっちゃん、まじ楽しみ。


酒井隆史『暴力の哲学』読んでる。おもしろい。ふせん貼りまくってる。
暴力を再定義し、現代に、意味ある、60年代、70年代の暴力をよみがえらせよう、ということ。図らずも『ランナウェイ/逃亡者』である。
フーコーニーチェによる権力・暴力論があり、酒井はフーコーニーチェの「仮面」をかぶった、と表現している。ドゥルーズは『ニーチェ』の中で《ニーチェにおいて、一切がマスクである》(p18)と書いているのを意識しているんじゃないかと思った。偶然のめぐりあわせ…。