メル・ギブソン『ハクソー・リッジ』


まず、劇中で描かれている、幾つかの、ある「攻撃」行為が、デズモンドによって、「変換」し「反復」される、ことについて考えたい。


幼少時のデズモンドが、兄とのじゃれあいのような喧嘩の果てに、あまりに過剰な反撃を相手にくらわせてしまった、その結果として、まさに父親に折檻されようとするシーンで、父は、その道具として、腰に巻かれた皮のベルトを抜き取る。
その後、成長したデズモンドが、教会の前で起こった事故の被害者たる青年の前で、ベルトを抜き取る。それは、彼の足に巻きつけて傷からの出血を止めるためだ。


入隊したデズモンドが、所謂障害物走のような訓練の最中、勝負相手である同僚に、乗り越える木の壁の上から、蹴落とされる。
戦場では、デズモンドが、負傷した兵隊を助けるため、崖の上から、まるで前述と同じような身振りの突き落とすような形で降ろしている。


同じ隊の兵士によって、嫌がらせでデズモンドのベッドがひっくり返される。
その後、今度はデズモンド自身の手で、誰にもぶつけることのできない怒りの表れとして、軍法会議開廷を待つ部屋の中で、同じことが繰り返される。


ヴィンス・ヴォーン演じるハウエル軍曹が、ある新兵を名乗らせた後に、無理やり"グール"とあだ名をつけるシークエンスがある。
デズモンドはまさしくその"グール"が負傷した際に、彼を勇気づけるために、そのかつてのやりとりをずらしつつ、コメディとして"再演"する。
(話は逸れるが、今作について、笑う要素無し、と言っていた人がいたけれど…だってヴィンス・ヴォーンが新兵を鍛える軍曹役なんだよ!?どう考えても笑わそうとしてるじゃんか。もちろん常に、果たしてこれは笑っても良いのか?という問いとのせめぎ合いではあるわけだけれど…でもこの笑いは嘲りではない)


これらは、何を示しているのか。

銃を手にすること、武器を使用した軍事教練を拒否するデズモンドが、上官や軍の上層部など、様々な人間から何度も問われることがある。
それは、実際に敵から「攻撃」された時、愛する者が傷つけられた時、「仕返し」をしないのか?ということだ。
この、明確な答えが存在するはずのない問いに対して、上記の、2つのシークエンスの組み合わせが、今作が、あくまで「映画として」用意した、「回答」となっている、と考えることができると思う。


「仕返し」そのものを消滅させるのではなく、受けた「攻撃」を、そのまま安直に(非創造的に)相手へと返す、のではなく、作り変え(「変換」し)て自分のものにしてしまう(その時、本来の行為に宿っていた攻撃性を姿を変えてしまっている)、そしてまったく別の他者に向けることさえしてしまう、ということ。


付け加えれば、「事実として」の回答であるところの、デズモンド自身のあまりにも非現実的な"英雄的行為"すら、この映画の中では、一見消化されえない、デズモンドから兄へ(殺傷)、そして父への(銃)、という、2つの「攻撃」の「変換」である、とも言えてしまうだろう。

以下補足。


ヒロイックとか美化とかもちろんあるけど、1人の狂人が制度の中に飛び込んでいってその制度を相対化してしまうが実はその振る舞いも制度は許容してしまう(この国は成り立ちから狂ってる!)し、そもそも究極の狂気たる戦争は揺るがないという恐ろしさが描かれててとにかく最高。そもそも良心的兵役拒否者=Conscientious Objectorとは何なんだ、という…非常にアメリカ的な存在だ。両義的で、正気でも狂気でもあるんだけど…という。そして、こんなこともう二度とやりたくない…ってなる。崖という場所が倫理のedgeになる…んだけどよく考えたらそんな場所はいたるところに存在していたんだろうな、と。

ニューズリールを見るシーンも印象深い。当時においての意味(若い新兵たちは、母国でこうした戦場の様子を垣間見て、それを後に実体験したのだろう)と同様に、劇中でその後起こる/見せられることになる陰惨な描写の予言として機能している、と思う(実際にスクリーンに映し出すのではなく、ニューズリールという存在それ自体が)。