西谷弘『昼顔』


細部まで狂気が充填された映画。見ていて気が狂いそうになる…このとんでもなさは、(この名前を出したくは無いけれど…)最早"西谷弘の『岸辺の旅』"。しかも深津絵里より上戸彩の方が料理しまくるし(胡麻をするだけじゃない!)、バスは勿論のこと、電車や車、自転車にサーフィン、車椅子まで出てくる!なんたる世界の充実っぷり。

そして、徹底した運動への執着、文字通り全て網羅してやると言わんばかりの異常さ。座る、立ち上がる、走る、階段を駆け上る、転ぶ、抱きかかえる、踊る、飛び降りる、横たわる…。

さらに(ドラマ見てないので的外れかもしれませんが)、『昼顔』に内在するモチーフであるところの「虫」を、生(命)へと向かう運動を誘うものとして登場させて、それに反して自らの意思による動きは死へと向かうものとして描いている。ラストの緑の光の点滅のシーンを見てる時に、あーここまでやるのか…まじで勘弁してくれ…もう限界…という気持ちになった。あまりにもなあからさまさ。同じ線路を舞台とした、『真夏の方程式』の、陸橋から落下する赤い傘の動きを描き切る狂気(http://d.hatena.ne.jp/niwashigoto/20130629)を思い出さずにいられない。

それにしても西谷弘は、「私は(日本の芸能界的にセックスと暴力はなかなか難しいけどそれ以外は全部)一切妥協しない!なぜなら妥協するととんでもないひどい惨状になるから!」と宣言している(ひどい惨状と言うのは、アレやアレのことだ)。さらに、今作のセックスと暴力の奇形っぷり(貧弱な巧妙さによる邦画の通例通りな隠蔽と、"不発"のイメージ――「殴ってやればよかった」と語る登場人物、そしてそれらの変形された回帰としての多発する傷の描写と新たな命の萌芽)、作家性なのでは??と錯覚してしまいそうになるし、しまいたくなる。

さらに奇妙さで言えば、小柄で華奢な、子どものような四肢をしている上戸彩が、斎藤工に抱きかかえられた時、まるで二人が父娘のように見えてしまうシーンに触れたい。この関係がインモラルであることを、まったく物語とは異なる別角度からの、見せ方での、ビジュアルでの演出で(!)強調しているのではないかと考えてしまうと、その気味の悪さ、不気味さの煽り方はなんなんだ、と思わずにいられない…(この「妄想」を広げるならば、伊藤歩は娘に夫を取られまいとする母親になり、平山浩行は父から娘を奪い取ろうとする外部からの来訪者になるだろう)。


2人の蛍観察をダイジェスト的に見せていく箇所で、あんなギターかき鳴らした曲である必要あるか?と思ってめっちゃ笑ってしまった(ってこれもドラマからなのかもしれませんが)。やばすぎる、悪夢のようだ。しかもここの編集がまた素晴らしいんだよな…動きの繋げ方の気持ち良さ。

あと、北野先生が使ってた茶色の四角いバックパック欲しいし、長袖ポロシャツとか興味なかったけどきたいと思ったし、紗和のオフホワイトのコンバースも履きたいと思ったよ。