ピーター・バーグ『パトリオット・デイ』


『スノーデン』と同じように(http://d.hatena.ne.jp/niwashigoto/20170202/p2)、ケネディの写真が現れたと思ったらまさか"終わり方"まで同じとは…。

例えば『ハドソン川の奇跡』や無論『スノーデン』と並置したとしても、それらの作品と比べて事実との距離というか事実の取り扱い方が常軌を逸してると思った。同じボストン物としてより根が深い("敵"は"悪魔"でもないし、外部から来たものでもない)『スポットライト 世紀のスクープ』と比べるとさらに異常だ…いやむしろ、「スポットライト的」ではないからこそこの「異常」な造りなのかもしれないな。

マーク・ウォールバーグ演じる人物は一応の主人公として描かれるけど、今回もやはり(それはサリーやエドワード・スノーデンと比べると、だけど)ヒーローとして劇的(かつ過激な)活躍をするわけではなく、起きた"事件"をただただ受け止めるしかできないでいる。というか、ピーター・バーグは、本来ならば英雄的に主人公を描くことも可能であるべきところを節制しているとすら思えてしまう(それが例え事実でないとしても…という注釈すら不要だ本来は、映画なのだから)。

しかし、「権利の読み上げはいらない」とか「戒厳令に近い」とか、かなりやばい橋を渡ってるところ(とそれに対して一応の疑問を呈するところ)は描いてはいる。あとは恐怖の尋問シーンも(「弁護士を呼んで」に対する"no rights")。めちゃくちゃ繊細な描写で、ともすれば許容せよと言ってるような取れなくもない。ボストンは(最後語られる通り)DEFEND=自衛の街なのだと。

目の前を覆って、道行を塞ぐものを突破する、という行為。それが、実体を持つ物質であれば、蹴飛ばしたり、車で弾き飛ばしてしまえばよい。しかしそれがもし、形を持たぬ、精神や思想のような(幕のような、布のような)ものであったなら、果たしてそれは可能か?

それが端的に示されてると感じたのが、ある人物がヒジャブ("覆うもの")を取り外すシーン。彼女が語った言葉が疑わしくなるのと同時に(『ブリッジ・オブ・スパイ』の泣きじゃくる妻から軍人への"変身"を想起)、もう1人の人物のゆるがなさ(彼女は外さない)を示す。

アメリカは、そのような形を持たぬ、遍在可能な、すでに内部に入り込んでいる(リストは全てチェック不可能だし、何よりもそれはアメリカ人の姿をして、別のアメリカ人へtextedすらしている)ものに対して"自衛"することなどできるのだろうか。

ちなみに、『バーニング・オーシャン』="目"(http://d.hatena.ne.jp/niwashigoto/20170422)に対して『パトリオット・デイ』="足"なのも、卑語の重層も、その通りって感じでした。はい。