デヴィッド・O・ラッセル世界にひとつのプレイブック』見た。

感動的に素晴らしいフレームインを反復するジェニファー・ローレンス=ティファニー、迷信を繰り返し要求するデ・ニーロ父、嵐のように現れては去るのを繰り返すクリス・タッカー(!ひさしぶりだなまじで…)、初手からかましてくる(しかしそれがこの二人には普通なのだろう)実兄、唐突に流れ心かき乱す「My Cherie Amour」(まじ名曲)…。
(てっきり『ザ・ファイター』と同じカメラマンだと思ったら、違った、しかも日本人の)常に静止せず、微妙に揺らぎ続け、人物の周囲をぐるりと廻ったり、突然速度を持ってクローズアップしたりし、不安げな手元を映されたりもする、安定感のないカメラワークにさらされ、ブラッドレイ・クーパー=パットは、被害者であり、享受者であり、何よりも不遜な聞き役で在り続け、自分からは、妻の浮気相手を殴って以降、何かを発することはなく、隠ぺい工作のごとく「ニッキ」の名を口にし続けるがゆえに、それは向かいあうこととかけ離れていて(会話は常に切り返しで繋いでいる)ティファニーを怒らせ、家族を悲しませる。
しかし、すでに最初から、カードは出そろい、決まっていた。「出会った時から」!ティファニーはランニングコースを調べていたのだ。「サイン」は示されていた。"Silver Linings"は、希望の光、と訳される。その言葉通り、夜であっても、街灯や、家から漏れる灯りが消えることはなく、――ハロウィーンなのだし、クリスマスなのだし――、完全な暗闇になどならない。人々は行き交い、彼らはふたりぼっちにはならない。
しかもその"sign"は、読み解かれてもいたのだ。同じ場所に同じようにおかれる手紙が印刷であるのを、おかしいと、本当に思わなかったのか?『武器よさらば』で激怒した男が、『蜂の王』のあらすじを女から聞かされ、おもしろそう、などと、本心で思えるか?並んで柔軟をする2人が移るダンスの練習部屋の鏡の画がクローズアップされてゆくのも、思い出しておきたい。
パットは無意識な隠ぺいをやめ、今度は意識的に(「1週間も」)胸の内を隠す。
そして、終盤の、ダンスをする姿の圧倒的カタルシス、ダンスの最中、二人の顔を交互にとらえるカメラの際立つ素晴らしさ…(なんといっても、ダンス競技会の会場に足を踏み入れ、奥のバーカウンターに行きつき、飲み物を注文するティファニー、の動きをワンカットで撮ったり、ラストの二人のキスシーンでの回転、カメラが急激に引いていき、通りの景色を映しながら後退していくところ、…口に出して、すげぇ、と言ってしまった)。
細かいことを言えば、ニッキ自体の扱いとかどうなんだよ、ということもあったりするのだけれど、それらをすべてなぎ倒して1点に、ぐるぐると廻るカメラの中心点に集約させるストーリーの力、に泣かざるを得ないし、だからハリウッド映画に、アメリカ映画に賭けられるのだ。

見終わったテンションは、とても冷静なものではなく…。ひたすら、良い映画だなー、というしかなかった。
取り急ぎ、記しておきたいのは、ウィキによると、ティファニー役の候補として、当初はズーイー・デシャネルアン・ハサウェイ、と来て、エリザベス・バンクスキルスティン・ダンストアンジェリーナ・ジョリーブレイク・ライヴリールーニー・マーラレイチェル・マクアダムスアンドレア・ライズブローオリヴィア・ワイルド、…と候補がいたらしいが、まじでジェニファー・ローレンスでよかったなー、ということ。いやでも、最初の二人でも、もしかしたらよかったかもしれない。が、あの表情の独特さ、ある種のふてぶてしさだったり、不満げな雰囲気だったり、を持つジェニファー・ローレンスが演じたことで、ティファニーというキャラクターの魅力が、全然違った風なものになっていたと思う。
(キャスティングのことで言えば、ブラッドレイ・クーパーは、まぁヴィンス・ヴォーンはどうでもいいとしても、マーク・ウォールバーグでもよかったんじゃないか、とは思いますが、しかし、あの甘い展開は向いてないか、とも思いました)