マーク・フォースターワールド・ウォーZ』見た。3D。

WHOの施設で、保管されている病原菌を奪取すべく、ゾンビだらけの棟に潜入する3人の人物に、別棟にいる職員たちが、自分たちの意思を伝えることのできない彼らに対してできることは、室内の各所に設置されている複数の監視カメラを切り替えて動きを追い、手に汗握りながら、見守ることしかない。
それは、現代世界において(そしてそこを舞台とする映画において)、離れた空間を接続する第一のツールである携帯電話は排除されているからである。
おそらく、不死者の性質がゆえに災いをもたらすものとして全編にわたって扱われる「音」を発するためなのだろう。印象に残るのは、イスラエルの人々の歌声(祝祭の歌が、災厄を呼び起こす。う声が大きすぎる、静かにさせなければならない…)であり、韓国で雨の夜鳴り響くの着信音(肝心な瞬間には「電源はお切りください」…事実その後しっかりその教訓は生かされ、電波状況の不具合のようにごまかしてスイッチオフするシーンもある)である。
――言わずもがな、ここまで書いたことすべては、あるものの換喩になっている――いや、はっきり言うと、12秒で発症してしまうという設定、それは、ゾンビは(モンスターは、幽霊は)突然目の前に現れる(しかも音が先行して!)、という映画的必然(の1つ)に奉仕するものだ――

しかし逆説的に、「音」を、安全を保障する道具として描くシーンもある。
ジェリーが保管室にたどり着く。女性職員が彼に、部屋を開錠する暗証番号を教えるために、壁に取り付けられた電話が鳴り、さらにドアの開閉の音をたててしまうのだが、それを聞きつけて敵がすぐにやって来ない。これは両者の距離が比較的離れていることを意味する。
この、音と距離の関係性を短い描写で表現するシーンは冴えているのだが、どうも箇所によっては、その特性が生かし切れていないようでもある。
例えば、事前の注意を無視して女性兵士が銃を使用してしまうことや、その当の注意を発した張本人である男性職員が繰り返し足元の缶割れたガラスで音を立ててしまうこと、カメラに向かって掲げられる手書きのメッセージ、など、もう少し演出や脚本で手を加える余地があるんじゃないだろうか。
さらに言えば、何か、「おもしろい」展開の萌芽となるような描写がここそこにあるのだけれど、それをそのままで放置してしまっている、というか…。窓からのぞく老婆、カナダへの移送、飛び去ってしまう飛行機。

パシフィック・リム』ともども、壁(つまり人類の護衛という知恵)が無効化する物語である。行動しなければ生き残れない、というのは極めて映画じゃないか。ブラッド・ピットにそういわせるだけでも価値はある。実際の劇中の彼(そして役者としてのブラピ自身)が、世界に(映画に)対して、そうであるか、は別にして。

ただ一つ、最後に言うとすれば、子供を、愚かに、精神的な足手まといに描くのはあまり好きじゃない。スピルバーグはそんなことしない…。