スティーヴ・マックイーンそれでも夜は明ける』見た。

まず、あくまで、個人的な考えとして。
何をもって映画を評価するか、を考えていくと、結局そんなことはできやしない、という結論になる。
映画を作った人々が、何を提示したいか、とか、観た人が、何を示されるべきだと思うか(そしてそれが達せられているか否か)、とかを語るのは、どうでもよいと感じてしまう。
自分にとっては、映画においてスクリーンに何が現わされてしまっているか、それをどう観るか、が知りたい。



確かに、ミヒャエル・ファスベンダーのあの役はおかしい。昔馴染みに思想の違いでくってかかったり、嫁を過剰に罵倒したり、果ては保安官に悪態ついたり。異常な人間として造形されている。それがそのまま、黒人奴隷に対する振舞いを繋がっているように描いているのはミスリードといえるかもしれない(まぁリードしたり、されたり、っていうのを映画に求めることがそもそも…)。

対して、本当に、現代の観客にとって怖いのは、ベネディクト・カンバーバッチ演じる男の方だというのもわかる。娘と引き離される母に同情し、優秀な人物は褒め称える。しかし、「リベラル」な彼の「裏側」に、やはり奴隷を売り買いしている、という事実が常にはりついている。
では、こう考えてみる。どちらをより深く描くべきだ、とかではなくて、前者が、アクション的な、肉体的、視覚的恐怖を、後者が精神的な、内面的な恐怖を、それぞれ喚起している、と。
そして、二人とも、アメリカ南部に住み、聖書を読んで神を信じる。家族を持ち、商売をしている。数多ある共通点の中のどれが、彼らに、奴隷制を前提とさせているのか。それは、あまりに圧倒的に、わからない。さらに恐ろしいのは、おそらく、相通じていなくてもよい、ということだ。
それは、カナダ人のブラッド・ピット演じる大工の思想が、何によって形成されたのかわからないことと同じ。そして、ファスベンダーの「性質」が、法律が生んだものなのか、本来の気質なのか、環境なのか、判別がつかないことも。
なにかが原因のはずだ、と思っていて、ふと、主人公が、悲惨な境遇に置かれることには、何の根拠もないように、そんなものはそもそも存在しない、と気付く(そして、ほとんど偶然に、稀なケースとして、彼の生還も)。これは別に卑近なレベルに落とそうとしているのではなくて、いうのだけれど、この作品は最早ホラーと呼べる。たまたまひどい目にあい、たまたま助かる。
しかしこの映画では、ジャンル的表現や物語、語り口、を殆ど用いていない。失敗する「逃走」は激しい代償を伴わないし、パッツィーの「申し出」をソロモンは断る。代わりに、1つのカットの強烈さがある。味方のはずの監督官も、奥様も、助けてくれず吊るされたまま放置されるソロモンと逃げようと迷い込んだ林の中で出会う奴隷の死。後半の、エップス夫妻とソロモンとパッツィーの、長回しの水準たるや。カメラは動き、鞭打ちによって裂ける背中までとらえる。


これを見てしまうと、キウェテル・イジョフォーが主演男優賞なんじゃないかという気がしてしまう。