アレン・ヒューズ『ブロークンシティ』見た。

車中で、朝陽を浴びながら、恋人の死を思うバリー・ペッパーと、自らの最愛の友人の死を報道するニュースを見るキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、一筋の涙を流す2人の表情の美しさ。
マーク・ウォールバーグラッセル・クロウが部屋で会話するかなり長いワンカットもそうだったけれど、動きよりも顔、をひたすらにとらえている。

市長と支援者であるロックウェル社社長がスカッシュをするシーン。市長が、自分の選挙での戦い方を、あるスポーツ選手にたとえる。それは試合での戦術のことだったのだが、聞いていた社長はそれを勘違いして、お前はゲイか、と尋ねる。おそらく、その選手にそのような事実があったということなんだろうけど、それを聞いて市長は若干むっとして、真意を説明する。
市長は、胸を強調するセクシーな服装の秘書を傍らに配していて、彼女が愛人である、と、この作品は表象として示している、ととらえることもできる。しかし、動きや人物配置などで、その事実を直接的に描くことはない。何より彼女の「寡黙さ」「表情の乏しさ」は、何か、肉体的に「雄弁でない」こと、雇い主と性的な肉体関係になっているようなある種の軽薄さのなさ、硬さ、を一方で強調しているようでないか。
また、鏡の前で身支度をする市長夫人、を後ろから「尋問」する夫の所作は、ネックレスの留め金をつけてあげ、そのまま首をしめるようにつかむ、というもので、見せかけの親密さとそれゆえの高圧的な様子でこそあれ、セクシャルとは言い難い。
こうした表現と並行して明らかにされるのは、対立候補であるヴァリアント議員と、選挙参謀であるアンドリュース(演じるはカイル・チャンドラー!)の、悲劇とともに明らかになる密やかな関係である。
信頼できる部下であり恋人でもあったアンドリュースの死を目撃して(おそらく、窓から眺めていたのだろう)、何もできなかったと悔やみ、酒を飲んで錯乱する議員を、すべてわかって優しく慰めるのは、主人公ビリーが警察を辞した時点から7年たった現在、出世し本部長になったフェアバンクス、という男だ。
なぜ彼が、その隠されていた関係を知っていたのか。そして、このシーンに漂う、奇妙な穏やかさ、はなんなのか。酔い混乱する男の背中を繊細になでる元上司と、元部下である私立探偵、の淡いアイコンタクトでなされる簡易的な拷問、も印象的だ。
そして、このNY市警トップの男こそが、真の、市長夫人の「愛人」であったことを、自らほのめかすことまでやってのける。ただそれは、決して夫人からは語られず(またそのような映像描写もなく)あくまで、片一方、の発言でしかないのも奇妙だ(少なくとも夫人は、市長と離婚したがっているのだが、その理由までははっきりと明言しない。2人には子供はいないようだ…)。

論を収束させるのを急ぐ前に思い出しておきたい発言がある。
ホモフォビアな発言を繰り返し観客を閉口させるビリーが、女優を生業とするガールフレンドから、主演映画が完成したこと記念したパーティに誘われる際、断る理由として、「化粧をするような男」(つまり俳優、「ゲイ野郎」)と顔を合わせたくない、ということを口にする。

選挙の最終決戦となる討論番組の準備をするシーンで、市長が、ファンデーションを塗られブラシで顔をなでられるカットが、何気なく挿入される。その後の、討論中の彼の顔は、まさしく化粧をしすぎたような色の濃さだ(テレビ出演のためにそれはいたしかないのだが、映画となると、その過剰さが露わになっている)。

キスまででとどめられた、主人公とその恋人のシーンや、おそらくは好意を持っているはずの、探偵事務所のアシスタントと彼の別れのシーン(アロナ・タルがかわいかったです)、も象徴的なのだけれど、この映画では、男女の性的な(というより異性愛的な)繋がり、のイメージ、を排除している。あるのは、偽り・見せかけのもの(仮構された愛人関係、映画内でのラブシーン――無論「本当にヤッた」なんてことはない――)、そして、男性同士の、決して直接的には描かれない(closet、といってしまってよいのだろうか)親密さ、である。
なぜなのか。
思えば、すべての因縁の始まりは、ある少女の強姦殺人事件、だから、である。
ビリーが、事件の被害者の姉であるナタリーの、映画内でのセックスシーンに過剰に反応したのは、おそらく嫉妬「だけ」ではないのだろうし、彼女に対して口にする「レズビアン」という冗談めいた言葉、は、この2人が、単純な恋愛関係ではない、ということを暗に示しているのではないだろうか(別れの際、ナタリーは、2人の間には妹の死という事実しかない、それ以外は何もない、と語る)。
この作品のモチーフとして在るのは、徹底した、ヘテロ的な男性性――一方が他方を制圧するという暴力性――への嫌悪である、と言ってしまおう(いやしかし、本当は違って、むしろその逆なんじゃないか、という気持ちの方が強かったりもするのだけれど)。

この物語において重要な役割を果たす、ボルトンヴィレッジというおそらく低所得者用のマンションには、7年たった今も、壁に、殺された少女の死を悼むペイントがあり、その両親も住み続けている(ここに娘は今もいる、と語る)。
この住宅の取り壊し、高層ビルの建築計画を目論む市長と、それを阻止するビリーは、その身振りや(主に罵倒の)ボキャブラリーによって、ホモフォビックさを強調している。しかしそれは――ガス・ヴァン・サント『ミルク』において、ジョシュ・ブローリン演じるダン・ホワイトの、ハーヴィー・ミルクへの過剰な攻撃性を思い出したいのだが――、彼らのアンビバレンツさの表れでもある。両者ともに、自らのフォビアに反する感情や感覚を抱いている(その演出を施されている、ということ)。