チャド・スタエルスキ『ジョン・ウィック:チャプター2』


前作に引き続き、そして前作よりも徹底して描かれる貸与と借用、贈与と授与。「借りたものは返そう」、そして「やられたらやりかえそう」。その世界を貫くのが、共通通貨としてのゴールドコイン。これらが象徴するのがつまり、assasinたちの"社会制度"だ。

そして(無論殺し屋の、ということだけれど)、ルールが無ければ動物だ、と劇中で語られるんだけど、ではルールを守ればどうなるか、と言えば、そこにあるのは現代社会ではなく、近代、もしかすると前近代的な世界。現代の貨幣制度は無視され("700万ドルで7発")、道徳より誇りが選ばれる。

そこでジョン・ウィックは、どんな言語にも通ずるだけでなく、優れた殺しのテクニック、所作をuniversal languageとして使いこなし、国境を越える(とはいえ、キアヌの鈍重な、相手の体に当たって振りぬかず、はねかえるようなアクションは、どちらかといえばスムーズな発話というより吃音を思わせたりもするのだけど)。

銃ないし銃撃戦は、離れた距離を保っているはず者たちをふいに結びつけてしまうものだ。
その現象が、本作ではともかく頻発している、というかほぼその状態を維持していると言える。銃撃戦がまるで、殴り合いの近接戦のように演出されている。それはべたべた触るような過剰な接触のようだ。そこからさらに発展して、最早銃弾を放ちあうことは、コミュニケーション、会話の域に達する。彼らは拳でわかりあう…だけでなく、弾丸でわかりあうのだ。一番笑ったのは、ジョンとカシアンの地下鉄でのシーン。離れた2人が、まるでカップルが横並びに歩いて肘や指で互いをつつき合っているかのようにこそこそと撃ち合う!

そういう意味で、直木三十五『日本剣豪列伝』や勝小吉『夢酔独言』、山田風太郎作品の読後感に近いものがあった。日本の前近代的世界で、(現代からみれば)異常な規範にのっとって動き、暴力の応酬を繰り返す剣客たちや忍者たちの世界。
ということで(どういうことで?)キアヌは忠臣蔵もやったことだし、チャド・スタエルスキー監督と、『柳生忍法帖』で十兵衛とか、『伊賀忍法帖』の笛吹城太郎なんかをやったらいいんじゃないかと思う(47RONIN見てないけども…)。

さらに言えば、前近代的なファンタジーの世界でジョンが、ルールを破ってしまえば、そこから放り出され、目の前に広がるのが現代、なのかもしれない。安息の地のない、ルールのない、無法地帯で、監視され追跡され続ける。というのが続編で描かれるということかな(この写真のルビー・ローズ、まるで「チャプター3で会いましょう」と言っているようですね)。