ジェームズ・マンゴールド3時10分、決断のとき』を新宿で見た。

「○○行ったことあるか?」と遠い土地の話をしてみたり、「グリーンの瞳」を押してみたり、聖書の一節をつぶやいてみたり、しまいにゃあの犬みたいな濡れた目でしっとりと見つめてみたりという、ラッセル・クロウ先生=ベンさんの人たらしテクを思う存分堪能させてもらいました。あと、下手くそな絵を描いてみたり、母親バカにされると(しかもされ方が「娼婦」って…)ぶちきれてみたりもしてました。お腹いっぱいです。

というのはまぁどうでもいいとして(よくないけど)…。

遠くから目撃すること、銃で狙うこと、監視すること、などの視線に関係する行為が、視界を遮るものがほとんどない(もしくは遮られる場所から移動するしかない)状況(での銃撃戦や狙撃戦?)でストーリーを動かし、人間を動かす、ということの、ただそれだけの、単純なおもしろさというのを改めて認識した。何しろ、見間違い、や、見たことがない人物を探すこと、が現れる。

そして、登場人物の視線がクローズアップによって、どのような心情で(欲情か憧憬か憤怒か嘲笑か軽蔑か恐怖か)、他の人物や風景に放たれているのか理解しやすい描き方がされている。そうした視線が支配する世界。

そういう意味で、ダンを演じるクリスチャン・ベイルの視線の色・意図の定まらなさが生きるんだろう。彼が主役である理由というか。何を思って見つめているのか、すべての見つめ方が同じようにも違うようにも思える。言っちゃえばわかりずらい、っつーことだが。最後の告白の時でさえ。

ラッセル・クロウは、反面、あのクロウ節な演技、瞳でがんがん表現していく。だが、すばらしい「慕情」を見せつけるベン・フォスター演じるチャーリーに、ボスへの慕情ゆえの最期を、ラッセルは、不安定な視線によって迎えさせる(まるで乗り移ったかのように?ただ単に元々目が小さいだけのような気もするが)。怒りなのか悲しみなのか憐れみなのか安堵なのか、わからない。それに感動する。というか泣いた。

銃撃戦の音はいかにも今という感じ。爆破の描写も。

衣装もよかったなー。ベンの帽子や、ダンのぼろぼろの上着、チャーリーのPコートみたいなやつ(ボタンを外すのがまた…)。